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  • 笑顔のかげに
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朝日新聞デジタル

越智久美子さん提供

2002年 12歳 全日本選手権で

2005年 15歳 グランプリファイナルで

2013年 22歳 世界選手権の公式練習で

GPシリーズ・世界選手権のSPとFS合計点の各季平均
(金姸児は2011、2013年度不出場)

心を打つまなざし

 「浅田真央さん 3歳」

 一生懸命に「天使さんのポーズ」をする女の子の写真が、名古屋市中村区にある「越智インターナショナルバレエ」のスタジオに飾られている。クラシックバレエを習い立てのころの姿を、カメラのレンズがとらえたものだ。

 フリルのついた衣装をまとい、片ひざを立ててしゃがんでいる。両手を胸の前で重ね、前方斜め上を見つめる。

 幼児教室の宣伝用チラシのために、幼い子を集めて撮影会をしたとき、十数人いた中で、唯一、1人だけで写っていた。当時を知るバレエ団の越智久美子さんは「なぜか真央だけ1人で写っていた。この子が真央ちゃんだから、というわけでもなく。十何人いる中で、カメラマンが彼女のまなざしに心打たれたのかも」。人を引きつける魅力が、この頃からあったのかもしれない。

 休憩時間になっても、走ったり、跳んだり、回ったりを繰り返していたという。とにかく、体を動かすことが楽しくてしょうがないという様子の元気な女の子だった。

世界初の技「新星が現れた」

 スケートを始めたのは、それから2年後の5歳の時。バレエのために足首を強くしたいというのが理由だった。氷の上で、少女は一層生き生きした。やはり夢中で走ったりはねたりしていくうちに、バレエではなく、スケートにのめり込んだ。

 競技会では、共にスケートを習った2歳年上の姉・舞さんの成績が常に上だった。「とにかく舞に負けたくなかった。昔は舞の方がうまくて、試合で負けるといつも泣いていた」。新しい技も、器用な姉が先に身につける。少し不器用な妹は、一生懸命練習するのに姉に追いつけず、「舞はずるい」と口をとがらせたこともある。身近なライバルの背中を追いかけてトップアスリートへの階段を駆け上がった。

 朝日新聞に初めて浅田の記事が載ったのは、2002年12月23日付の朝刊だった。小学6年生で出場した全日本選手権で、女子史上で初となる、3回転―3回転―3回転ジャンプを成功させた。やや回転不足ながら、トリプルアクセル(3回転半)ジャンプも着氷し、初めてのシニアの大会で7位。「女子フィギュアスケート界にまたも新星が現れた」という書き出しの記事は、「すっごくうれしい」と言って演技後にうれし泣きした姿を伝えている。

早熟の天才 15歳で世界一

 日本の天才少女は、05~06年のトリノ五輪シーズンに、世界的な存在になった。

 05年12月、東京で行われたグランプリファイナル。薄いピンク色の衣装をまとい、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の音楽に乗って、軽やかに、完璧なトリプルアクセルを跳んだ。背後から高く上げた足を片手で支えて体を大きく反らせたまま回転する片手ビールマンスピン。難しい技を簡単にやってのけ、ジャンプの着氷時に愛らしくガッツポーズした。結果は優勝。「びっくり、びっくり、びっくり」と、驚きの声を上げた。

 自分以上に、世界が驚いた。1990年9月25日生まれの浅田は、国際スケート連盟(ISU)の年齢制限により、トリノ五輪への出場資格がなかった。五輪前年の7月1日前日に15歳以上である必要があるが、約3カ月足りない。それなのに、このシーズン負けなしでトリノの金メダル最右翼だったイリーナ・スルツカヤ(ロシア)や安藤美姫らを破ったのだ。

 米国を始めとする海外から、「五輪に出してあげたらいい。4年間は長い」などと制限への疑問が出て、議論がわき起こった。そんな外野の騒がしさをよそに本人は、「あまり気にしません。5年後のバンクーバーまでに完璧なスケーターになってメダルを取りたい」と無邪気だった。

 このとき、身長158センチ、体重44キロ。まだあどけない少女だった。

飛べない…… 涙の銀メダル

 バンクーバー五輪に向けた4年間で、彼女は涙を人前で見せることが増えた。

 07年3月の世界選手権では、ショートプログラム(SP)5位から盛り返ししたフリーの演技後にリンク上で大粒の涙をこぼして喜んだが、総合で2位だったと知り、悔しくてトイレで泣いた。その後、報道陣の前でまた涙を見せた。世界選手権初出場で銀メダル。素晴らしい結果だが、納得できなかった。

 「なんか、だんだん年をとっていくごとに涙もろくなっちゃって……。昔は人前で泣くのは我慢してたんですけど、最近は止まらなくて。悔しさは、また練習にぶつけます。もっと精神力を強くして、もっと練習すれば、来季は優勝できると思います」

 ジュニアで難しいジャンプを跳んでいた選手が、そのままシニアでも活躍できるとは限らない。体形の変化という壁にぶつかるからだ。彼女も例外ではなかった。

 ジャンプが跳びにくくなり、失敗を恐れて助走スピードを落としてしまう。すると、一層ジャンプが跳べなくなるという悪循環に陥り始めた。練習リンクで涙を流しながら滑ったこともある。思うように技が決まらない苦労から、試合で良かった場合も悪かった場合も、感極まってしまう。

 08年3月、苦しんだ末、初の世界女王。「すごいうれしい」。また涙があふれた。

 バンクーバー五輪シーズンの09年は、さらに苦しかった。GPシリーズで2位と自己最悪の5位。GPファイナルの出場を逃した。

 「どうしても(空中で)回りたいという意識が出るとコースが内側に行ったり、ぶれて外側に行ったり」「何もジャンプが跳べなくなってしまって、焦りがあった」という。

 動作解析が専門の中京大の湯浅景元教授によると、身長が2センチ伸びるだけで、回転効率は10%悪くなるという。バンクーバー五輪当時の資料では、浅田は身長163センチ、体重50キロ。トリノ五輪から、背が5センチ伸び、体重は6キロ増えた。回転速度という長所が発揮出来なくなっていた。

 初めて出場したバンクーバー五輪。ジュニア時代からライバル視された金姸児(キム・ヨナ、韓国)との対決に注目が集まった。フリーでは、トリプルアクセルを2度成功させた。一方、それ以外のジャンプで2度の失敗があった。結果は銀メダル。

 「演技自体は全然満足していないので。アクセル2回、跳べたってところがよかった点。それだけだと思います」。涙をこらえきれなかった。

ソチへ 一からの再出発

 「一からやり直す」。ソチ五輪へ向け、崩れてきたジャンプを根底から作り変えると決めた。10~11年シーズンから、新たに佐藤信夫コーチに師事した。

 それは過酷な4年間の始まりだった。11年と12年の世界選手権では、修正途中のジャンプで失敗が目立ち、共に6位に沈んだ。11年12月には、最愛の母・匡子さんを亡くす。体重を落とさなければ跳べないと思い、食が細ってげっそり痩せた。迷いの中、「お母さんは、『真央は、ママのためにスケートをやってくれているんだよね』『お母さんがいなくなったら、真央はスケートをやめちゃうのかもしれないね』と話していたんだ」とこぼしたこともある。

 「もう滑れない」。12年の世界選手権後、信夫コーチに告げた。

 それでも、また勝負の世界に戻る。振付師のローリー・ニコルさんがとびきり明るい曲を用意してくれた。他の選手と一緒に、競うように練習することも楽しかった。男子フィギュアでバンクーバー五輪に出場した小塚崇彦の練習で中京大を訪れた信夫コーチに進退を尋ねられ、「やります」と即答した。

 ジャンプは、1回転の練習からやり直した。「わかってんのか」「今はやめておけ」と、信夫コーチの鋭い声や、「もうわかったんです!」という浅田の高い声がリンクに響いた。泣きながら練習することもあった。その成果が現れたのは、引退を決めて臨んだソチ五輪シーズン。GPシリーズで3連勝。きれいなトリプルアクセルも戻った。間に合った。

 「修行僧のようだ」と周囲をうならせた猛練習で生まれ変わった彼女は、ソチの舞台に立った。自分の演技ができなかった4年前の悔しさを晴らすために。

浅田を指導する佐藤久美子コーチ=佐藤正人撮影

トリノ五輪金メダリスト荒川静香さん=竹谷俊之撮影

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