しどけない、という言葉を耳にすることは最近あまりない。服装や姿勢がだらしないさまをいう。逆に、無造作にくつろいだ様子が魅力的にみえるという使い方もある▼哲学者の鷲田清一(わしだきよかず)さんが『老いの空白』で、〈高貴なまでのしどけなさ〉と書いている。ローマの美術館のカフェでの光景だ。店の支配人は仕事を店員に任せ、ぼんやり外を見たり、壁にもたれたり、ぶらぶら歩きをしたり。その姿が実に優美だ、と▼支配人は何もしないことに慣れている。手持ちぶさたを紛らせようとはしない。お座りをしてじっと庭を眺める犬のような、妙な高貴さが漂う。他人の思惑などは眼中になく、ひとり超然とたたずんでいる▼この〈見事なまでの無為〉の境地が、私たちの老いには必要なのではないか。鷲田さんはそう問いかける。10年以上も前の著書だが、なお古びていない。もちろん理想ではあろう。だが、加齢に向き合う心の持ちようとして銘記しておきたくなる▼年をとるにつれ、人の記憶の配置というものは変わっていく。精神科医の中井久夫さんは『徴候・記憶・外傷』でそう指摘する。いわば縦並びから横並びへ。若い頃は日めくりカレンダーのような年代記だが、だんだん時間の順序があいまいな遠近法になり、最後は一枚の絵になる、と。単純化した話ではあっても、なぜか納得させられる▼人生の記憶の画面を眺める無為の時間。それが手に入れば幸せといっていいのだろう。敬老の日に皆様のご長寿を祈りつつ。