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【チョンムスターグ峰登山を振り返って】


山田 新
早稲田大学登山隊隊長

 今も「幻の山」のまま

 私たちは、その山の姿を唐突に目にした。ことし8月3日。腰まで濁流につかって川を渡り、高原砂漠を砂ぼこりにまみれて行進した220キロのキャラバンも最終日の12日目だった。小さな峠に登り詰めると、青空をバックにそそり立つ白いピークがあった。

 今夏の新疆は、崑崙山脈のふもとの住民が6年ぶりという悪天候に見舞われた。雲やガスに視界をさえぎられ続けたキャラバンの最後に、チョンムスターグ(6、962m)は、いきなり目に飛び込んできたのだ。

 ウイグル語で「大きな氷雪の山」を意味するチョンムスターグ山群は、この周辺で最も山らしい山といっていい。何度も胸に描いてきた登山目標という思い入れもあったろう。だが、初めて肉眼で見るその姿には隊員のだれもが心底、感動する迫力があった。

 鋭角のスカイラインを描く頂稜は、丸い山体が多い崑崙のほかの山とは違っていた。なお20キロを隔てているとはいえ、ひだ一つ一つのディテールまで確認できる。昨年秋の偵察隊が撮った写真のイメージより、ずっとかっこうがいい。

 「よかったなあ。ボタ山じゃなくて」

 そんな声が隊員の中から聞こえた。しかし、その頂稜がくっきりと姿を見せることは、この後、何度もなかった。

 今回、長引く悪天候の中で収めた初登頂という結果には満足するべきだろう。だが、登頂者が第1次アタック隊の3人にとどまったのは、やはり物足らない。参加した山岳部の学生たちを登らせたかったし、私自身も登りたかった。私の心の中でチョンムスターグはいまも「幻の山」のままである。

 幻の山へのアプローチを探ることから始める

 計画の発端は、ことし早稲田大学山岳部が創部80周年を迎えるので、記念登山をしたいとの意見がOBの間で出たことである。チョンムスターグの名は、1998年秋ごろ浮上した。京大隊が88年に初めて挑戦したが、悪路に阻まれて山体を見ることもできなかった山である。

 崑崙山脈西部でも、チョンムスターグが位置するケリヤ川源流一帯は特に情報が少ない。参考にできるのは、1898年にインド測量局の英国人デージーが測量のために足を踏み入れた記録くらいしかない。

 1911年に大谷探検隊の橘瑞超がケリヤ川源流と思われる地域に入ったものの、ラクダ隊は全滅し命からがら逃げ帰った。しかし、記録の記述はあいまいで、どこを通ったのかさえ判然としない。

 私たちの登山準備は目標の山へのアプローチを決めることから始まった。チベット側から車で接近を試みた京大隊の結果を見れば、機械力に頼るよりは、むしろ100年前と同じ駄獣のキャラバンの方が何かと応用がきいて可能性がありそうに思えた。

 昨年5月、山岳部のOB組織である稲門山岳会は木野広明、稲葉英樹両会員を偵察に派遣した。タクラマカン砂漠南縁の街、ホータンから四輪駆動車で1日行程のポルーから、ロバのキャラバンを組んで山に入る。橘瑞超もこの村からケリヤ川源流を目指した。途中までは1980年代以降、日中合同学術調査隊など数隊の入山記録がある。

 標高5000mの高原砂漠を行くキャラバンは予想外に厳しかった。時期が早かったこともあったのか、ロバのえさになる草がなく、低温もロバを消耗させ、1頭が死んだ。

 ロバ方らは前進を拒否したが、なんとかデージー以来のケリヤ川源流域到達を果たし、最後は木野ら2人だけでチョンムスターグのふもとを目指した。ガスの切れ目に一瞬姿を現したチョンムスターグらしき山の写真をとったが、ベースキャンプ予定地まで20キロを残して引き返さざるを得なかった。

 これでは、とても登山隊を送るわけにいかない。昨年9月、今度はデージーが入山路に使った、カラサイからのルートを探る。

 カラサイはポルーより約200キロ東にある。ベテランの児玉茂会員が単身、ぶっつけ本番で現地の情報収集をしながらロバのキャラバンを組織し、10日をかけてついにチョンムスターグのふもとに到達した。

 地方政府の牧畜民定着策が進む中で、羊の放牧を生業とし、キャラバンのノウハウを受け継いでいる人たちの存在に感謝しなければならない。

 児玉が撮影したチョンムスターグの写真は、私たちが初めて目にする「幻の山」の姿だった。これでようやくアプローチのめどがついた。

 登山隊スタート 悪天候の中、登頂成功

 12人の登山隊は山岳部の学生から60歳代のシニアOBまで、多様な年齢構成となった。参加した学生5人は山岳部の全部員である。登山時期は彼らの夏休みに合わせ、この登山を夏山合宿の代わりとした。

 8月3日、チョンムスターグの北面の4、850mにベースキャンプ(BC)を建設した。5日、90頭のロバの半数を帰すとともに、残りのロバの一部を使って5、200mまで荷揚げし、前進ベースキャンプ(ABC)を設営した。氷河のモレーンからしみ出す水が清らかな流れをつくり、山ふところに抱かれた日だまりの緑のオアシスである。

 学生に疲労がたまっていることが分かったので、6日をBCで完全休養とした。皮肉にもこの日、快晴が初めて一日中続いた。このあと、天気は再び下り坂となり、日がさしたかと思うとガスがまき、あられを伴った雷も襲来する、不安定な天気が続いた。

 ABCから北稜にルートをとる。ガラ場を経て容易な雪面を登る。9日、5、900mの稜線上のピークに第1キャンプ(C1)をつくった。C1より70mほど下った大きな鞍部から、巨大な急傾斜の雪面を行く。高度差400m。雪質によっては雪崩が怖い。

 雪面を抜け、幅の広い雪の稜線をたどる。東側に寄りすぎると雪庇がある。ガスで視界の悪い日は、ルート表示の赤旗が見えるようになるまで待機することが多かった。こんもりと雪を被ったスノードーム(6、650m)基部のコル(6、400m)に12日、第2キャンプ(C2)を設営した。

 14日、大谷映芳、木野と学習院大OBの棚橋靖の3人がC2入りしアタック態勢が整った。彼らはテレビ朝日の取材班でもある。

 15日午前7時20分(以下北京時間。現地の経度では約2時間の時差があり、この場合5時20分が生活感覚に合う)、大谷から「小雪が舞っているが、上空には青空もある。天気の変わりやすい山なので、とにかく出発してみる」とトランシーバーで連絡があった。

 大谷らはたっぷり雪がたまって不安定なドームの急な斜面に、ロープを固定しながら登った。じきに「雪雲の中に入った」と連絡があった。西峰(6、740m)へのジャンクション・ピーク(6、700m)から少し下ると、稜線は北側に雪庇が張り出し、南側の急な雪面をトラバース気味に登る。軟らかく滑りやすい雪の下は硬く氷化している。

 午後2時、山頂直下の岩稜にたどり着くが視界が悪く、何度目かの天気待ちをする。クレバスもあってルートの選定が難しい。  同四時、アタック隊は行動を再開した。雪と岩のコンタクトラインをたどり、難しい部分にロープを1本固定して最後の雪田に出た。急な雪面を登り、同5時半、頂上に立った。時間がかかりすぎている。C2で待つ私はいらだっていた。

 大谷から「登頂」の連絡を聞いた私は、祝福もそこそこに「写真の1、2枚でも撮ったら、早く下ってくれ」と口走っていた。大谷らは、なんとつれない男かと思っただろう。

 同9時過ぎ、大谷は「ホワイトアウトで動きがとれない。岩かげでビバークする」と伝えてきた。晴れてさえいれば、満月のあかりで夜中でも十分動けるのだが。

 これを最後に、アタック隊の連絡は翌朝10時すぎまで途絶えた。経験豊かな大谷らを信頼してはいても、長い、不安な時間だった。

 ツェルト1枚で夜の寒気に耐えた大谷らは、視界の良くなった翌朝10時ごろ下山を始めた。10時20分、大谷のいつもののんびりした声がトランシーバーを通じて届き、各キャンプで歓声が上がった。

 大谷らの報告から、本峰へのルートは経験の浅い学生には無理と判断し、いったん全員をBCに下ろし態勢を立て直す。1日の休養のあと、私と稲葉が本峰の第2次アタック、学生2人とOB2人が西峰初登頂を目指しC2入りした。しかし、天気は好転することなく、20日、登山終了を決め、翌日全員がBCに集結した。

 大谷は頂上からの交信で、悪天候をついてのアタックについて、「これを逃したら登頂のチャンスがなくなるかもしれないと思って少し無理をした」と伝えてきた。

 私は彼らのアタック中、何度か「引き返して、再挑戦も考えてくれ」ともちかけた。「すみません。行かせて下さい」が、大谷の答えだった。結果として、アタックを強行した大谷の判断通りの展開となった。大谷は1970年のツクチェ・ピーク(6、915m)、79年のラカポシ(7、788m)北稜、81年のK2(8、611m)西面、そして今回と、参加した早稲田の登山隊ではすべて登頂者となり、そして決まって帰路にビバークしている。なにかの巡り合わせだろうか。いずれにせよ、大谷の山との駆け引きのカンのさえは、こうした経験の積み重ねの上に立ったものである。

 近年、ほとんどの大学山岳部が部員不足に悩んでいる。早大山岳部もご多分にもれない。ロバの背に揺られた無人境のキャラバンや、前人未到の山稜の雪を踏み分けた経験が、5人の部員たちに何をもたらすのか。期待をこめて見守っていきたい。

(岳人11月号より転載)


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