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「巨匠ピカソ」
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「革命」生んだ故郷の港町

(2008年10月31日)

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ピカソの生家があった建物の前の広場にはハトが集まる

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石のブロックを積み重ねたようなアルカサバの要塞

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闘牛場では、少年たちが練習をしていた=いずれもスペイン・マラガ、大西写す

 東京・六本木の国立新美術館とサントリー美術館で開かれている二つの「巨匠ピカソ」展は、日本でのピカソ展としては空前のスケール。パリ国立ピカソ美術館の所蔵品から、初期から晩年までの代表作約230点が来日し、パブロ・ピカソ(1881〜1973)の「造形革命」の足跡をたどることができる。では、その「革命」の源泉はどこにあるのか。ピカソの生地、スペインのマラガを訪ねて探った。(大西若人)

 青い空に、輝く海。街を彩るヤシの木々。

 地中海に面したスペイン南部の港町マラガは、陽光にあふれ、避寒地として知られる。 この街の広場に面した4階建てのアパートで、ピカソは生まれた。父は美術教師で、ピカソが最初に発した言葉も絵を描くために求めた「ピス!(鉛筆の幼児語)」だったという伝説も残る。生家の内部は美しく改装され、ピカソ生家美術館となっている。

 マラガで過ごしたのは10年間と短いが、この時期に得たものは少なくない。

 「マラガ時代、父親から受け継いだものは、闘牛とハトです。それは生涯、ピカソの頭の中に残っていたのだと思います」。ロウルデス・モレノ館長は、そう話す。

 闘牛好きの父親は、幼いピカソを闘牛場に連れて行ったという。ピカソが8歳のころ描いた最初の油絵とされる一枚にも、闘牛士が登場する。長じても、牛頭人身のミノタウロスを描き続け、そこに自身を投影したといわれる。

 アパート前の広場には、今もハトが集まる。ハトは、父親がよく描いた題材で、ピカソの絵にも登場。娘の一人をパロマ(ハト)と名付けてもいる。

 しかし、ピカソに、より本質的な影響を与えたものがあるとすれば、光と風土、街の造形ではないだろうか。

 建築物は、青空を背景にしたとき、よりエッジを際立たせる。そこにさす強い光。生まれるくっきりとした陰影。ものの形は、いやが上でも、一つのボリュームとして浮き上がってくることになる。

 この光景は、事物を幾何学的に分析し、再構成することで本質をつかもうとするキュービスムの源の一つといえないだろうか。マラガの高台にある要塞(ようさい)アルカサバなどは、石の直方体が積み上げられたような姿を見せ、そのままキュービスムに見えるほどだ。

 写実性の強い新古典主義時代の代表作「牧神パンの笛」(23年)を見ても、ピカソは人体を青い空と海の前に置き、ボリュームの集まりとしてとらえている。シュールレアリスムの時代になっても、造形への意思は変わらない。

 大高保二郎・早稲田大教授(スペイン美術史)も「あの『ゲルニカ』もモノトーンであるように、ピカソは基本的に、色彩よりもフォルム(造形)の人」と見る。「もちろん、光と影という意識は強く持っていたでしょう」。そう、闘牛も光と影の儀式だ。

 さらに、「マラガの海と太陽の開放性に加え、キリスト教文化とイスラム文化が混交する点も、ピカソの自由な発想につながっているのではないか」と指摘する。そしてマラガの対岸は、アフリカ。キュービスムにヒントを与えた仮面などが生まれた地だ。

 政治的な理由などからスペインに戻らなかったピカソ。晩年を南仏各地で過ごし、91歳で亡くなっている。

 モレノ館長はこう話した。「ピカソは南仏の地で、最後まで、地中海の太陽を求めていたのでしょう」


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