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中国における訴訟リスクに備えよ

津上俊哉(つがみ・としや)/現代中国研究家

2014年05月15日

津上俊哉さん

 今年4月、中国の裁判所が日本の船会社が中国で運航する船舶を差し押さえ、同社が40億円の供託金を支払った。日本は、日中間の戦時賠償問題は国交が回復した1972年の「日中共同声明」により解決済みだと考えてきたが、この差し押さえを受けて、マスコミや経済界には、「中国は歴史問題で民間企業を狙い撃ちし始めた」という不安が拡がっている。

AJWフォーラム英語版論文

 グッドニュースは、中国外交部が「本件は商業紛争であり、戦時賠償問題とは無関係」と言明したことだ。また、官製メディア「環球時報」も、4月25日付けの社説で「中国はこの問題が政治化することを望まない。本件は中日間の争いに法的解決という新しい途を拓くものと理解すべきだ」とするとともに「本件は周到な準備と法律の熟知で勝利したもので、『政治の勝利』ではない。対日賠償を求める他の原告たちはそのことを知るべきだ」と主張した。

 バッドニュースは、「商業紛争」以外の戦時民間賠償戦争時代に起因する民間訴訟も増加する可能性が高いことだ。今年2月には日中戦争時の日本側による強制連行をめぐり、 中国人被害者や遺族が日本企業に損害賠償と謝罪を求める訴訟を北京の裁判所で起こしている。

 今回の差し押さえ後、中国の官製メディア「新華社」も、戦時賠償問題は「日中共同声明」により解決済みとの日本側主張に反駁(はんばく)して、「共同声明で中国が放棄したのは、中国政府による対日賠償請求権であり、中国の民間、個人の請求権には影響しない」という中国政府の立場を改めて主張する記事を掲載した。中国は同時に、戦争犯罪や戦時の非人道的行為による個人の損害賠償請求には時効を適用しないとするのが国際社会の流れだとも主張している。

 これらの動きは、安倍政権誕生以来、日中関係が最低の状態にあるために起きているのだろうか。私は違うと思う。たとえ日中関係が良好であったとしても、この種の訴訟は今後増えるだろう。

高まる権利意識

 それは、こうした動きが、中国人の権利意識の強まり、国際関係観の変化、そして日中経済関係の深化により、中国の裁判所が執行の対象としうる日系企業財産が増加しているといった時代の変化に起因するものだからだ。その点で、日系企業が備えなければならない中国の訴訟リスクは、決して戦時民間賠償に止まるものではない。製造物責任をめぐるPL訴訟など今日的な訴訟でも事情は同じである。

 「日系企業が狙い撃ちにされる」といった不安は、曲解と無知に基づく根拠のないものなのだろうか。日系企業の立場に立って擁護すれば、二つのことが言えよう。第1は、2012年の尖閣「国有化」のとき、合法的かつ友好裏に操業していた日系企業に対する不法な侵害を中国政府が止めなかったことで、中国の投資環境に対する日本経済界の信頼は大きく毀損してしまっていることである。

 第2は、加害者が誰であろうと被害者が救済される法的解決の途が開かれているならともかく、中国の裁判所は、日系企業に対しては厳格に法を適用する一方、中国政府が中国公民に損害を与えても、救済しようとはしないことだ。この恣意的な法適用の実態の前では、「日系企業だから狙い撃ちされる」という不安は消えない。

 今年1?3月期の日本企業の対中投資は、中国経済の景気悪化を受けて、前年比でほぼ半減している。今回の船舶差し押さえは対中投資にさらなる打撃を与えるだろう。

 中国進出済みの日本企業は、中国の個人の権利意識の強まりなど、時代の変化に起因する訴訟リスクに対して、ビジネスライクに備えをするべきだ。リスクを冷静に科学的に分析すべきであり、「13億人の国で訴えられたら、賠償リスクが天文学的数字に達する」といった根拠のない恐怖感に捕らわれるべきではない。

米国での経験をいかせ

 最も訴訟リスクが高いマーケットは中国ではなく米国である。トヨタは去る2月、アメリカで5年前に問題化した「意図しない急加速」問題で、当時行った大量リコール措置の負担とは別に、情報公開が不適切だったことを理由に司法省に12億ドル(約1210億円)の罰金を支払ったと報じられた。ほかにも民間賠償請求とは別に、独禁法違反のカルテルや証券取引法違反の罰金など、日系企業が数億ドル単位の罰金支払を余儀なくされることは、米国ではままある。

 日本企業は米国のそのビジネス環境に慣れているのだから、中国でも保険に入り、訴訟対応体制を強化するなどの措置を講ずればよいのである。社歴が長く戦時民間賠償のリスクを抱える企業は、リスクの量的な見積もりを冷静に行い、中国市場で期待できる儲けではリスクをカバーできそうもないなら、静かに撤退できる準備を始めればよい。

      ◇

 つがみ・としや 1957年生まれ。80年旧通商産業省入省、96年在中国日本大使館経済部参事官 経済産業研究所上席研究員などをへて退職。2003年、「中国台頭」でサントリー学芸賞を受賞。現在、津上工作室代表。