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生涯、ハンセン病と闘った2人の死

鎌田 慧(かまた・さとし)/ルポライター

2014年07月28日

鎌田慧さん

 日本のハンセン病対策は、明治時代から「強制隔離絶滅政策」だった。その誤りを政府が認め、「らい予防法」を廃止したのは、たかだか18年まえのことでしかない。

AJWフォーラム英語版論文

 かつて、発見されたハンセン病患者は自宅で「検挙」され、貨車に積みこまれて各地の収容施設に送られた。伝染性の強い「業病」と見なされていた。1930年代には、政府の優生思想と治安対策による、「20年根絶計画」がつくられ、男には断種、女には堕胎を強制して子孫をつくらせず、官民一体の「らい(ハンセン病)」絶滅政策をおこなった。戦後になって、特効薬「プロミン」が開発されたあとでも、「絶対隔離」の国の方針は変わることはなかった。

 ハンセン病市民学会は、その歴史を研究し、学び、元患者さんたちとの交流を深め、支えあうという運動である。私は共同代表のひとりを務める。5月に10回目の交流集会が、群馬県草津町の療養施設「栗生(くりう)楽泉園(らくせんえん)」で開かれた。毎回、持ち回りで全国の施設で開催している。

 5月9日、ホテルに着くと、ハンセン病市民学会共同代表の訓覇浩(くるべ・こう)さんが、「いま神美知宏(こう・みちひろ)さん(80)が亡くなった」と沈痛な声でいった。神さんは東京の療養所である、多磨全生園(たまぜんしょうえん)を午前中に出て、このホテルに着いて倒れ、病院に運ばれた。が、間に合わなかった。心筋梗塞だった。

 神さんは全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)の会長として、世界にも類をみない差別政策(日本の植民地だった台湾と韓国でもおなじ政策をおこなっていた)だった、「らい予防法」の廃止と元患者の待遇改善闘争を先導してきた人物である。

 このときすでに、栗生楽泉園にいてハンセン病国家賠償訴訟の全国原告団協議会会長として、神さんとともに闘ってきた、谺(こだま)雄二さん(82)の危篤が伝えられていた。7歳で発病した谺さんは、強制収容、脱走を繰り返していた詩人でもある。亡くなる直前、詩文集『死ぬふりだけでやめとけや』を上梓した。

 神さんを追うように2日あと、市民学会の開催中に、谺さんも闘病むなしく他界した。ハンセン病運動を担った二人の中心人物が、ほぼ同時に亡くなったことが、ハンセン病施設のこれからの維持の難しさを暗示している。というのも、神さんはいつも、入所者の高齢化と死亡者の増大、入居者の将来の不安を訴えていた。入居者は全国でかつての6分の1の1860人、平均年齢は83歳、その誰にも老後を託す子どもはいない。



差別に加担〜「無関心の共謀」

 いま、年に160人ほどの人たちが亡くなっている。死者は故郷にかえることもなく、療養所内の納骨堂に合祀されている。私は、谺さんのお棺のまえで額づいたあと、すぐそばにある、「特別病室」と呼ばれる「重監房」を見学した。入所者の留置場である。ここで23人が「獄死」した。

 ハンセン病患者が、法律によって故郷と家族から引き剥がされ、差別迫害されるのを、わたしたち市民は、「安全」と「排除」を求めるねじれた意識によってあと押しした。「無関心の共謀」である。その償いは、このひとたちの安心できる老後の確立である。

      ◇

 かまたさとし 1938年青森県生まれ。ルポライター。早稲田大学を卒業後、業界紙、雑誌記者をへてフリーランスに。労働問題、公害など社会問題に取り組 み、1970年代初めからは原子力発電の危険性を鋭く指摘してきた。著書に『自動車絶望工場』『日本の原発危険地帯』『六ケ所村の記録』など。