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先入観

ベイ・グギン/アジアネットワーク客員研究員
(韓国・東亜日報経済部記者)

2003年8月22日

 日本滞在の韓国人と交歓すると、日本人論で盛り上がることがしばしばだ。そのいくつかを紹介してみよう。

 (その1)大学のゼミに参加してみて、どことなく「全体主義的」な雰囲気が感じられた。先輩と後輩の関係が軍隊式。ほかのゼミの人に対しては排他的。でもいったん「ゼミの仲間」になると、そのゼミの伝統と暗黙の規則を守る限り、実によく助けてもらえる。この「ゼミの集団主義」を日本全体に広げた姿を想像すると、ちょっと怖い気がする。日本という国は、いつでも集団になってその利益のために外の人を苦しめることができるのじゃないか、という疑念を捨てられない。(日本の名門私大を卒業した韓国人のサラリーマン)

 (その2)日本人の特質をよく表現する言い回しが二つある。一つは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」。一緒に渡れば個人の責任はぼんやりとなる。しかも集団の内では個人の正義感とか価値観は主張されない。ただ集団の道を沿っていくだけ。後々問題が出てきても集団にその責任を押し付けられる。

 もう一つは「寄らば大樹の陰」。大勢に従って自分の立場を決める。「文句」という言葉はもともと儒教社会では良い意味で使われているのだが、日本ではうるさいというニュアンスで使われている。名分とか理由は必要ではない、ただ大樹のやることに黙って従う。するといつも勝ち組。(日本にいる韓国人のジャーナリスト)

 (その3)日本ではなかなか友達ができない。私がまず声をかけなければ誰も私に声をかけてくれない。友達になったと思っても心の中には入れない。目にはみえない壁がある。さらに、日本人には本音と建前がある。話をするたび相手の話が本音か、建前か、迷わざるを得ない。(日本語学校で学ぶ韓国人学生)

 といった具合だ。日本の「割り勘」文化と韓国の「奢り」文化の違いなど、生活習慣の差で生まれた偏見はけっこう無くなったが、やはり日本人の集団主義、それに伴った人間関係のあり方については、まだまだ理解のずれが大きいようだ。

 これらについては、当然のこと、反論も少なくない。

 (その1)日本人学生の間でも、一番の悩みは「友達がいない」こと。個人の疎外感は現代の都会人なら誰しも同じ。ただ韓国人と比べて日本人は友達になるまでさらに時間が掛かるという差はある。

 韓国人の場合は最初会った人といきなり友達になれる。飲み屋で飲んでいるうちに知らない隣の人と友達になって、そのまま家にまで一緒に行って2次会をする場合も珍しくない。初めての人でも出身地域とか大学とか、なにがしかの縁があったら特に親しみを感じて昔からの友達のようになる。それゆえ韓国人は「情けが深い」とよく言われる。半面、鉄鍋のように煮込まれた熱気が冷めるのも速いと指摘される。

 逆に日本人の場合は親しくなるまでかなりの時間が掛かる。徐々に熱くなる陶器のようだ。熱が冷えるにしてもかなりの時間がかかる。どちらがいいとは簡単に言えない。

 (その2)集団主義はどの社会にもある。韓国人と日本人の差は「家族社会」と「地縁社会」の違い。韓国は「家族」を中心にした儒教社会である。特に(儒教の価値観に基づいた)家族の名誉を守ることを何よりも重要に思ってきた。家族への考え方は同じ血筋の親戚で形成された村へ及んで、さらに地域に向いても同じ考えを持つようになった。問題は家族の名誉、すなわち理念が絶対的なものと見なされるようにになって、他人にも自分(の家族)と同じ考え方を強要する傾向がある。理念的な集団主義ではないか。

 日本の社会はもともと「村」を中心にした地縁社会。韓国の(血縁的観念の強い)村とは違って、権力者を中心として住むところを守るための組織あるいは集団と言える側面が強い。それゆえ排他主義の傾向が強く、村の外の人に対してずいぶん警戒心を持つようになった。内と外の区別も明確。つまり韓国のほうは観念的な集団主義、日本のほうは実用的な集団主義ではないか。

 (その3)本音と建前の違いも地域によって差がある。大阪人の表現は随分ストレートで、どちらかというと韓国人に近い。建前が目立つと言われる京都人の話し方も、本音と建前で説明するよりは洗練された表現に優れていると見る方が正しい。

 さらにいえば、建前には他人を傷つけないようにする配慮という面があり、程度の差はあるにしてもどの国にもあることではなかろうか。

       ◆              ◆

 偏見とか先入観は、あまりに単純な一般化が生みの親だ。過去のある時期の感情的な観察、結論が口から口へ広がり、一つの概念にまで固まってしまったのだろう。そうした凝固から自由であるには、自分たちの観察、結論を一度相対化してみるのも手である。「という見方もあるが、」と突き放してみるわけだ。

 私の日本人論もけっこう変わってきた。6年前、初来日のときは驚きの連続だった。その前までは日本人は冷たい、怖いと思っていたけれど、来てからは日本人は本当に親切だと思うようになった。たびたび日本に来るようになって日本のいろんな面を見かける機会を得た。今では、日本にはその人口の数ぐらい千差万別の日本人がいると思っている。私の日本人論はますますぼやけてきてしまっている。ただ一人一人の日本人との縁を築いていく中で、私の日本人観を鍛えていくだけだ。逆に日本人が韓国人を論じるとき、観察を重ねていくに連れて韓国人のイメージが多元的にぼやけてくるに違いない。それは歓迎すべき「観察の深まり」「ステレオタイプからの解放」であるだろう。

 白紙状態でお互いに新しい絵を描いてみる。興味深い楽しみの一つではなかろうか。

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 ベイ・グギン AAN客員研究員(韓国)。韓国・東亜日報の経済記者、21世紀平和研究所の研究員兼務。現在、朝日新聞アジアネットワークで研修中。日本経済の取材研究を通して日本とアジアの将来像を探る予定。