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韓国に滞在中の日本国際交流センター・シニアフェロー(朝日新聞前主筆)の若宮啓文さんのコラムです

(9) 楽しきかな、わが下宿ぐらし

2013年7月26日

 私のソウル暮らしは早くも4ヶ月半。このごろ政治の世界は与野党激突で騒がしいが、庶民はそれを冷ややかに見ている。というわけで、今日は私の下宿の話を書こう。単身の私は自炊が苦手だし、外食だけでは味気ない。日々の会話相手もほしい。そう思って学生街のシンチョン(新村)で下宿しているのだ。

 とはいえ昔の下宿とはまったく違う。僕が入ったのはトイレ、シャワー、冷蔵庫、洗濯機つきの小さな個室。去年できたばかりの8階建ての「リビングテル」だ。日本でいうならキッチンなしのワンルームマンションか。入居者は学生が多いが、一緒に食事することはないというので頼み込み、朝晩は大家さんと一緒にテーブルを囲むことになった。

 ご主人は漢方の薬局を営むその道の専門家。奥さんはもともと看護師で、いまも週に何度かパートで病院に通い、薬局も手伝う働き者だ。将来のためにと思い切ってリビングテルを建て、8階には自分たちが住んでいる。息子がふたりで、長男はいま大学を休学して薬科大学に入り直すために受験勉強中。次男も大学生だが、徴兵されて軍隊にいる。

 栄養に詳しい奥さんは食事に野菜や野草をふんだんに使ってくれ、美味のうえ健康にとてもよい。ときどき冷麺や参鶏湯、スジェビ(すいとん)なども作ってくれて食堂も顔負けの腕である。朝はサンドイッチに自家製ヨーグルトやトマトジュースなど。私は運が良かったが、韓国も変わったなあと実感する。

「北朝鮮より経済に緊張」

 おしゃべりも楽しくて役に立つ。例えば北朝鮮が「休戦協定を白紙にする」などと勇ましかったこの春、私が「緊張しませんか」とたずねると、ご主人は「それよりも、いまは落ち込んだ経済の方にもっと緊張してますよ」。漢方薬は普通の薬と違って経済に余裕がないと売れ行きが落ちるようで、最近はめっきりお客が減っているらしい。一方で北朝鮮の挑発には「またか」の思いのようだった。

 今度のソウル暮らしでびっくりしたのは、道端や駅のホームで男女が抱き合う姿によくお目にかかることだ。時にはキスもしている。ここはどの国だと錯覚するほどだが、奥さんにそう言うと「そうなんですよ、まったく。ひどくなったのは、ここ数年ですね。なぜなのかしら」。ご主人も「何とかならないものか」とよく腹を立てているという。

 女性の整形手術がこの国で当たり前なのはよく知られた事実だが、病院づとめの奥さんは「あれは一度やると、またやりたくなって繰り返すことが多い。でも、満足度はだんだん下がるみたい」と詳しい。「このごろは鼻の整形など、男性も多いんですよ」

 先日、次男が軍隊から休暇で一週間ほど帰ってきた。彼の部隊は銃や弾薬などを保管する仕事なので、普通の部隊に比べると楽なようで「新たな仲間ができたから結構楽しい」と言っていた。それでもつかの間の休暇は何よりの開放感のようで、毎日どこかに飛び歩いていた。

 お釈迦さまの誕生日で休日だった5月17日(旧暦4月8日)には、夫妻が行きつけのお寺へドライブに誘ってくれた。なかなか豪快で愉快な尼さんの読経に合わせて立ったり座ったりの礼拝108回。きつくて私はとてもついていけなかったが、しっかりやり通した奥さんは「これは健康にいいんですよ」。信徒たちと一緒にビビンバを食べて帰ってきた。これも楽しい思い出である。

 わかみや・よしぶみ 1948年生まれ。朝日新聞論説主幹、主筆を務め、2013年1月に退社。3月からソウルの西江大学で韓国語を学ぶ。韓国・東西大学碩座教授、ソウル大客員研究員。著書に「和解とナショナリズム」「闘う社説」など。