朝日賞 - The Asahi Prize -

2006(平成18)年度 受賞者一覧

(▼お名前をクリックすると受賞者の詳細情報をご覧いただけます)

 ◇作家・田辺聖子さん
   『田辺聖子全集』(全24巻・別巻1)完結にいたる文学活動の業績
 ◇作家・村上春樹さん
   世界各国で翻訳され、若い読者を中心に同時代の共感を呼んだ文学的功績
 ◇狂言師・野村万作さん
   長年にわたる狂言の優れた上演と幅広い舞台芸術への貢献
 ◇脳科学者・川人光男さん
   小脳内部モデル理論の提案・検証と人型ロボットによる脳機能の解明
 ◇時間生物学者・近藤孝男さん
   生物時計の分子機構に関する研究
 ◇発光生物学者・下村脩さん
   緑色蛍光たんぱく質GFPの発見と生命科学への貢献




◆「小説で遊ばな、そん」 作家・田辺聖子さん(78)

 「私は“ただごと”小説家。誰もが身に覚えのある日常の哀歓を書きたかった」 敗戦直後に父が死亡、女学校卒業後、大阪・梅田の金物問屋に勤め家計を支えた。職場は若い商売人で活気にあふれ、街には、働く女性が増えた。「彼らが読む新しい恋愛小説を書こう、主体性を持つ女の子を描こうと思った」と振り返る。

 64年に「感傷旅行(センチメンタルジャーニィ)」で芥川賞受賞。恋愛小説にエッセーやコラム、源氏物語など古典の翻案、小林一茶らの評伝と多彩に活躍してきた。昨夏に完結した「田辺聖子全集」(別巻含め25巻)に全作品の半分も収録できなかった。

 主人公は「姥(うば)ざかり」の老いを楽しむヒロイン、戦中派の戦後を描く「おかあさん疲れたよ」の肩の力の抜けた中年男性のように、みな、生活にやつれず恨まず人生を肯定し、読者を勇気づけてきた。

 「軽くて読みやすいものを目指した」と言うが、実は硬派。評伝では義憤を持って悪評を覆す。怒るときは怒るという姿勢は、カンボジアのポル・ポト政権を批判したコラムにも表れる。「歯止めがなくなった時の人の怖さ。『紙碑』という言葉があるが、物書きである以上、残るよう書き留めておきたかった」

 ひらがなやカタカナ、小文字も駆使した関西弁表記や選び抜いた言葉遣いで、日本語表現の可能性を広げた。「小説は字の芸術。字面がきれいでないと」。音読すれば正しい大阪弁も発声できる。「方言のせりふは声に出すと面白い。良い言葉を見つけたら自分で使ってみるとか、小説で遊ばな、そん」

 小説家の仕事は「みんなの気がつかないことを書くこと。気持ちを広く持ち、ただすべきはただし、発想や視点を変えてみることの大切さを教えること」と話す。

 技芸も批評心も包み込む田辺文学のユーモアを、川柳になぞらえる人もいる。論評するのはヤボといわれるゆえんでもある。(吉村千彰)

      *

 たなべ・せいこ
 28年、大阪市生まれ。64年に芥川賞。93年吉川英治文学賞「ひねくれ一茶」、94年菊池寛賞、95年紫綬褒章、98年度泉鏡花賞・読売文学賞・井原西鶴賞「道頓堀の雨に別れて以来なり」、00年文化功労者、03年蓮如賞「姥ざかり花の旅笠」など。放送中のNHKドラマ「芋たこなんきん」のヒロインのモデル。

▲このページのトップへ戻る



◆「愉しんで書くこと」 作家・村上春樹さん(57)

 世界中の若い読者に同時代の作家として広く受け入れられている。新作が出るたびに、あらゆる評価が世界のメディアを駆けめぐるが、「誤解の総体が真の理解である、というのが僕の基本的な考え方ですから」と、そのことにはとらわれない。

 作家としてもっとも大事に守ってきたのは「愉(たの)しんで書くこと」だ。「本人が愉しんで書いていれば、そして生活できる程度に本がコンスタントに売れていれば、読者の数の多少はそんなに関係ないものです」

 デビュー作「風の歌を聴け」の新しさは衝撃を与えた。英語で書いた文章を日本語に訳して作り上げた小説の文体や、登場する風俗も、それまでの日本文学の流れからみごとに切り離されていた。

 早寝早起き。ランニングを欠かさず、マラソンも走る。長編小説は海外で執筆、長編と長編の間に短編やエッセーを書き、翻訳やノンフィクション取材も手がける。トレーニングで自己記録を更新するスポーツ選手のように、新たな作品を発表し続けてきた。

 これまでに転機は二度あった。ひとつは「ノルウェイの森」、もうひとつは、地下鉄サリン事件の被害者に取材したノンフィクション「アンダーグラウンド」と、阪神大震災後に書かれた短編連作「神の子どもたちはみな踊る」だ。「その二つの段階を経ることによって、ひとつ上の場所に出られたという実感があった」という。

 デビュー以来、メディアとはできるだけ距離を置く。今回の取材もメールで。「アノニマス(匿名)な存在」としての自分を守ろうとしているように見える一方で、インターネットを通しての読者との対話は積極的に試みる。

 作家村上春樹への自己評価は「30年近くプロの作家として書き続けて生活しているんだから、それなりの資質みたいなものはあったのかな、とあくまで結果から逆算して考えます」。(佐久間文子)

      *

 むらかみ・はるき
 49年京都市生まれ。兵庫県芦屋市で育つ。早稲田大文学部卒。ジャズ喫茶を経営していた79年に「風の歌を聴け」で群像新人賞受賞。85年「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(谷崎潤一郎賞)など一線で作品を発表している。「ノルウェイの森」はミリオンセラーに。

▲このページのトップへ戻る



◆「今生きる狂言 目指す」 狂言師・野村万作さん(75)

 21歳の秋、小学校の体育館で舞台に立った時に、右足に痛みを感じたが、顔色ひとつ変えずに演じきった。楽屋に戻って足裏を見ると5センチほどの釘(くぎ)が刺さっていた。

 「狂言に燃えていた頃の懐かしい思い出です」

 幼少から父の六世野村万蔵に訓練を課せられ、10代半ばに狂言から心が離れた。だが、大学に入って「やはり狂言をやりたい」と父に告げ、必死に励んだ時期のことだ。

 「型通りにやるのは訓練の課程であり、いずれ自分なりの表現ができると気づいた」

 歌舞伎に触発されて、様式美の下で人間の心理をリアルに演じる「演劇性」を追求し始める。知的で格調高い技芸で、多くの名舞台を生んだ。至難の大曲「釣狐(つりぎつね)」は26回の上演記録を達成した。

 「狂言は室町時代の現代劇。せっぱ詰まった状況を演じることに、演劇のかたちがあると思う」

 57年にパリ国際演劇祭に参加したのを皮切りに、海外公演を旺盛に行い、狂言の国際的普及に大きく寄与した。

 現代劇に出演したり、シェークスピア劇を狂言化したり、新しい試みでも多くの成果を上げている。特に「子午線の祀(まつ)り」は評価が高い。

 「狂言の演技を反映できる役だけ、選(え)りすぐってやっている。狂言の門戸を広げたいとの思いからです。現代劇のファンが私の演技を見て、狂言に関心をもってくれたら、と。“他流試合”をやっても、結局は狂言に帰ってくる」

 狂言はかつて能の添え物と見られていたが、昭和30年代から狂言ブームが始まる。狂言の再評価は若い頃からの悲願で、「父が朝日賞を受賞してほしいと思っていた」という。その父が亡くなって28年目の受賞となる。

 「目指す究極は、今を生きる狂言。自然に自分が培ってきた表現を、現代に息づかせたい」

 集大成といえる「万作・狂言十八選」の上演が、今月から始まる。(小山内伸)

      *
 のむら・まんさく
 31年、東京生まれ。早稲田大文学部卒。父の六世野村万蔵に師事し、3歳で初舞台。50年に万作を襲名。77年、「釣狐」連続上演で芸術祭大賞。79年の木下順二作「子午線の祀り」の義経役で紀伊国屋演劇賞。また、63年に米国、66年にインド、82年に中国、89年にソ連(現ロシア)で狂言を初公演した。95年に紫綬褒章。

▲このページのトップへ戻る



◆「脳解明、戦略は見えた」 脳科学者・川人光男さん(53)

 複雑な動作も練習を重ねれば意識せず滑らかにこなせるようになるのはなぜか-。「小脳内部モデル理論」という運動学習にかかわる仮説を提案し、その正しさをロボットの実験で検証するという独創的な手法で、学習の仕組みを次々と解き明かしてきた。

 この理論は、見よう見まねの練習を繰り返すと、理想的な動作をするために必要な神経回路が小脳に作られていき、無意識の動作が可能になるというもの。82年の提案以来、各種実験で証明を重ね、99年にはカメラでとらえた人の動作をまねる人型ロボットを開発。ジャグリングなど20種以上の複雑な運動も、まねるうちにロボットのコンピューター内に神経回路ができて習熟させることに成功した。

 これらの理論や手法は、言語など人固有の脳機能の理解や、停滞する人工知能研究の発展につながると期待される。「脳をつくることで脳を知る」と言われる新たな研究の流れも生み出した。

 東京大では物理学を専攻した。卒業が近づくと進路に悩む自らの心を科学的に知りたい、という思いが高まった。「知性とは何か、脳の仕組みの全体像に真正面から切り込みたい」と考え、脳科学の幅広い研究法が学べる大阪大基礎工学研究科に進んだ。

 「失敗をおそれず、新しい試みを続けられる環境だった」。モデル理論がひらめいたのも、ロボットでの検証に挑んだのも、阪大の助手だった時の議論が発端だった。

 国際電気通信基礎技術研究所に移ると、モデル理論の検証は一気に進んだ。「原動力は研究へのドキドキ感。熱しやすく冷めやすいのか、一つの実験方法で満足できず、数年たつと新しい方法に変えてしまうんですよ」と笑う。

 脳研究を志して30年。「タックルの方法すらわからなかったのが、研究の方法や戦略はほぼ見通しがつくところまできた。ただ、脳の全体像を知るにはまだとっかかりにすぎません」(林義則)

      *
 かわと・みつお
 53年、富山県生まれ。76年、東京大理学部卒。81年、大阪大大学院基礎工学研究科博士課程修了。阪大基礎工学部助手、講師を経て、88年から国際電気通信基礎技術研究所(ATR)へ。03年、ATR脳情報研究所長に就任。04年、ATRフェローに選任された。大阪科学賞などを受賞。

▲このページのトップへ戻る



◆「人がやらない研究を」 時間生物学者・近藤孝男さん(58)

 朝になると自然に目覚め、夜になると眠くなり、海外旅行で時差ぼけに悩まされる。生物が体の中に持つ約24時間の体内時計は、おおむね1日であることから「概日(がいじつ)時計」と呼ばれる。その新しい仕組みをシアノバクテリア(藍藻〈らんそう〉)を使って解き明かした。

 時計遺伝子がたんぱく質を作り出し、増えたたんぱく質が遺伝子の働きを抑制しながら、生物時計が24時間を刻む仕組みは、マウスなどで解明されている。

 シアノバクテリアで見つけた時計遺伝子を、「回転」にちなんで「kai」と名づけた。根底に潜む仕組みを探り続け、この遺伝子がなくとも、その産物であるたんぱく質のリン酸化と脱リン酸化という反応で24時間のリズムが刻まれることを発見した。

 そして、3種類のたんぱく質とエネルギー源のアデノシン三リン酸(ATP)を混ぜるだけで、試験管内に生物時計を再現することに成功し、05年に発表した。この世界初の成果は、「極めて美しい」と評価されている。

 愛知県刈谷市の工場が立ち並ぶ地域で育った。「そんな環境だから自然にあこがれたのかも」。少年のころ昆虫採集や植物栽培に親しんだ。

 名大入学後、天文学とどちらにするか悩んだ末に、定員が少ない生物学を選んだ。「人がやらないことをやりたくて、当時、専門家のいなかった生物時計をテーマにした」。研究費の獲得に苦労して、分析装置を自作したこともある。「役に立つかどうかより、面白さを追求してきた。純粋科学の楽しさを若い人たちに伝えたい」

 たんぱく質の新しい機能を示すことにもなった成果は、今後の生命科学に影響を与えると期待されている。それを導いてくれた恩師や共同研究者たち、なによりもシアノバクテリアに感謝している。

 「シアノバクテリアは生物時計の秘密を人間に教えるために存在していると思うことがある」(黒沢大陸)

      *
 こんどう・たかお
 48年、愛知県生まれ。76年、名古屋大大学院理学研究科単位取得退学。基礎生物学研究所助手、米バンダビルド大研究員などを経て95年、名大教授。06年から理学研究科長。中日文化賞、日本植物学会学術賞などを受賞。ウキクサで概日時計の研究を始め、90年ごろからシアノバクテリアを使っている。

▲このページのトップへ戻る



◆「なぜ光る、考え続けた」 発光生物学者・下村脩さん(78)

 海中で美しく光るオワンクラゲ。この光のもとになる緑色蛍光たんぱく質(GFP)を発見し、発光の仕組みを解明した。

 GFPを細胞中のたんぱく質にくっつけて光らせれば、その振る舞いが直接観察できる。そんな有用性に気づいた米国の研究者たちが、生命の仕組みの解明に使う画期的な道具に発展させた。今では世界中の多くの研究室でGFPが実験に使われている。

 クラゲとの出会いは60年。留学先の米プリンストン大で研究をもちかけられた。翌夏、ワシントン州の海辺でクラゲとの格闘が始まった。

 発光部分をはさみで切り取り、すりつぶした液体から未知の発光物質を探す。しかも、一度光ると物質の形が変わるため、光らせずに抽出する必要がある。手がかりさえ得られないまま時が過ぎた。

 「当時、発光物質は酵素の働きで光ると信じられていた。だが、絶対に酵素が必要なのか。毎日、ボートで海に出て、考え続けた」

 ある日、光り終えた液体を捨てたら、海水と混じって、また光った。酵素でなく、海水中のカルシウムと反応して青く光るたんぱく質エクオリンを見つけた。さらに、この光を受けて緑色に光るGFPも一緒に発見。両者の構造を解き明かし、生命科学へ応用する道を開いた。

 44年、大阪市から長崎県諫早市に疎開。地元旧制中学に編入したが、わずか1日で軍需工場に動員された。戦後、旧制高校を目指したが失敗。1日だけの中学に成績表がなく、まともな内申書が手に入らなかったからだという。

 自宅で勉強を続け、48年に長崎医科大付属薬学専門部に入学。名古屋大研究生だった56年、ウミホタルの発光物質の結晶化に世界で初めて成功し、渡米につなげた。

 「絶対に不可能だと決まっていないことは、必ずできる」。今は自宅でホタルイカの発光の仕組みの解明に挑んでいる。(上田俊英)

      *
 しもむら・おさむ
 28年、京都府生まれ。51年、長崎医科大付属薬学専門部(現長崎大薬学部)卒。60年、フルブライト留学生として渡米し、米プリンストン大研究員。名古屋大助教授などを経て、82~01年、米ウッズホール海洋生物学研究所上席研究員。同研究所退職後は米マサチューセッツ州の自宅で研究を続けている。

▲このページのトップへ戻る

English Page

「朝日賞」TOPページへ



★ お問い合わせ ★

朝日新聞社CSR推進部「朝日賞」事務局
〒104-8011
東京都中央区築地5-3-2
[TEL] 03-5540-7453
[FAX] 03-3541-8999

公益財団法人 朝日新聞文化財団
〒100-0005
東京都千代田区丸の内2-1-1
明治生命館6階
[TEL] 03-6269-9441
[FAX] 03-6269-9442

過去の受賞者リスト
▼テキストをクリックすると詳細ページへ飛びます。

2016年度 ★受賞者 ★贈呈式

2015年度 ★受賞者 ★贈呈式

2014年度 ★受賞者 ★贈呈式

2013年度 ★受賞者 ★贈呈式

2012年度 ★受賞者 ★贈呈式

2011年度 ★受賞者 ★贈呈式

2010年度 ★受賞者 ★贈呈式

2009年度 ★受賞者 ★贈呈式

2008年度 ★受賞者 ★贈呈式

2007年度 ★受賞者 ★贈呈式

2006年度 ★受賞者

2005年度 ★受賞者

2004年度 ★受賞者

2003年度 ★受賞者

2002年度 ★受賞者

2001年度 ★受賞者

2000年度 ★受賞者

1999年度~1990年度 ★受賞者

1989年度~1980年度 ★受賞者

1979年度~1970年度 ★受賞者

1969年度~1960年度 ★受賞者

1959年度~1950年度 ★受賞者

1949年度~1940年度 ★受賞者

1939年度~1929年度 ★受賞者

朝日賞特別賞 ★受賞者