昭和ひとけた生まれの父は、ご多分に漏れず軍国少年だった。敵機が空からまくビラを絶対に読んではいけないと言われると、それを忠実に守り、ビラを配るとおとなたちの元へ届けていた。
彼は、疎開した広島で原爆を体験している。
死は避けられたものの、多くの友を失った。
「被爆者手帳を持っていれば医療費がかからないのに、なんで申請しないの?」と損得勘定だけで、私は質問をしたことがあった。
腹の底からしぼり出すような声が聞こえた。
「そんなこと、できん」
生きていることの後ろめたさが、にじみ出ていた。申請をしないことが、彼なりの供養だったのか、死者への佗びだったのか。うつむく父を見て、私は自分を恥じた。
終戦直後、思春期の彼が我慢ならなかったのは、鬼畜米英と言っていた教師の変貌ぶりだった。「戦争に負けたことよりもショックだった」と昨日のことのように悔しがる。激変した価値観に、どうやって自分をあてはめていったのか。
父が冗舌になるのは、広島を離れてからの話が多い。例えば、男女共学となった高校の体育の時間、女生徒が見ている前で男子は好記録を続出させていた。
「男が化粧をする時代が来る」
当時の先生の予言をバカにしていたのに、本当にそうなってしまったと感慨にひたる。
ひもじい思いをした彼の嫌いな食べ物はカボチャ。あまりの空腹に、他人の畑のスイカを友だちと盗んだこともある。食糧難で、大学受験のために泊まる宿にも米を持参した父は、私が米粒を一つでも残そうものなら、本当にいやな顔をする。
平和な世の中になっても苦労は続く。結核が彼の左肺を奪った。療養所での生活と大学中退。自分の子どもたちを大学に進ませたいと熱望したのは、この苦い経験があったからだ。
毎年8月になると、私は原爆の特集番組を必ず見ていた。そんなとき、父はテレビの前から姿を消してどこかへ行ってしまう。そして、番組が終わるころ戻ってくる。本当は、生き証人である父から当時の惨状を聞きたいのだけれど、父を苦しませるのは本意ではない。過去と向き合うことを避けている彼を、誰が非難できようか。
もうすぐ喜寿を迎える父は、ますます無口になっている。自分だけの世界を生きているように思える。それが楽しいなら、それでいい。
戦争の語り部たちとは正反対に、父はヒロシマの話はほとんどしない。でも、私には分かっている。左肩が極端に下がった父の後ろ姿が「二度と戦争をしてはならない」と大声で叫んでいることを。