父は木型師であった。木型とは木で鋳金の原型を作ることである。今は木型で鋳金の原型を作ることはほとんどなく、金型で作るようになっている。なぜ、父が木型の道に進んだのか聞いたこともなく不明である。
奈良の桜井で生まれ、下に4人の弟がいた。弟の面倒をみるために木型師の道を選んだらしい。身一つで東京・荒川に木型の修業ウに出かけた。父の師は神様と云われた業師であり、失敗する度に泳げない父を荒川に放りこんだという。修業行の後、関西に戻って鋳金会社に勤めることになった。関西出身の師匠も関西に転居し、師弟関係は続き、鍛えられた。40代で師より「もう教えるものは無い」と認められたという。
50代になって会社を辞め自宅を小工場とし、会社より困難な仕事を請け負って生活していた。家で作業をするようになって、その作業を小学時代の私はよく見るようになった。自作の鑿(のみ)で木を旋盤で少しずつ削っていた。その時の父の目は瞬きもせず、不動で凝視していた。季節やその日の天気によって変わる湿度を考え、1ミリの何分の一の伸縮差に応じて欅(けやき)を削っていた。
そんな父が中学年になった私に英和辞典を貸してほしいと言いだし、眼鏡をかけてページをめくっていた。当時の設計士は大学を出ていて、設計図に漢字ではなく英単語の略語を書くようになっていた。英語が分からない父、アルファベットの順も知らない父が辞書をひくのは大変だったに違いなかった。ついには私に英単語の略語を示して、何の意味かと尋ねるようになった。中学生の私が知る範囲は狭く「2R」が「2×半径」で直経を意味するくらいしか答えられなかった。その時の父の顔は本当に寂しそうで私も辛かった。木型師から木型制作者に変わる時代だったのであろう。
そんな父が年末の寒い日、私と友人のM君を野山への散歩に誘ってくれたのだ。盆栽用の草木を採るためであった。M君はお爺さんを老衰で、母と弟を鉄道自殺で、そして父を誤診で、この2年間のうちに亡くしていたのだった。継母と新しい弟との3人で暮らしていた。いつも自信がなく、いじめのターゲットであった。私がいじめグループと喧嘩するのも嫌がった。一人の世界に閉じこもっていて小学生なのに盆栽いじりを趣味としていた。それ知っていた父が誘ってくれたのだ。
私はともうれしかった。野山に行き、なんと野生の黒竹を見つけたのである。小学生の私達には切り取ることは難しく、父が自作の小刀で切ろうとした。鋭敏な小刀は、はずみで左手の親指と人差指の間を深くスパッと傷つけてしまったのである。見る間に鮮血がドクドクと吹きだしてきた。父は声も出さず上着の袖を破って手首に巻き、ねじり上げて止めた。そして平気な顔をして先を歩いて行ったのである。私の心は、初めは何かが痛く突き刺さり「M君のために我慢して」と思っていた。しかし、前を歩く父の大きな背中を見ていると心がどんどんと丸くなっていき「いつか、あんな男になりたい!」と思ったのである。
父は63歳で、私が22歳の時に再生不良性の貧血で他界した。突然の死ではなくゆっくりしたもので、家での静かな退場であった。