朝日新聞は8月5日朝刊で、慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言に基づく記事について取り消しましたが、謝罪の言葉がなかったことや訂正が遅きに失したことについて多くの批判を受けました。この記事について論評したジャーナリスト、池上彰さんの連載コラムでは、掲載を一時見合わせるという誤った判断をしました。また、東京電力福島第一原発事故の政府事故調査・検証委員会が作成した吉田昌郎(まさお)所長(当時)に対する「聴取結果書」(吉田調書)についての5月20日の記事についても取り消し、関係者に謝罪しました。朝日新聞は19日、東京本社で開いた紙面審議会で、一連の問題について4人の委員から批判や提言を聞きました。
吉田調書を報じた5月20日朝刊1面の見出し「所長命令に違反 原発撤退」「福島第一 所員の9割」を見た瞬間、オヤッと思った。以前この点に触れた文献を読み、「退避命令」があったと認識していたからだ。紙面化するまでに、社内でどこまで冷静な目でチェックを入れたのか。もし事前に決められたストーリーに囚(とら)われてしまったのであれば、ダブルチェックも効いてこない。
慰安婦問題については、遅きに失したが、誤報を訂正したことは英断だ。
だが8月5日朝刊1面の編集担当役員(当時)による「慰安婦問題の本質 直視を」は、訂正する部分がどこなのか、なぜ今か、今後どう対応するのかが分かりにくい。論文は、そのあとすぐに慰安婦問題の本質論に入って自分たちの今までの主張を述べているが、それでは自己弁護としか見られない。
読者にすれば、「慰安婦を強制連行した」という吉田証言が虚偽だったという報道がメーンであるべきなのに、それは1面にはなく、特集紙面の中で他の検証と並列的に扱われたため、クローズアップすべき「取り消し」部分が薄められたように感じたのではないか。
その後の池上氏のコラムを掲載しなかったのも誤った判断だった。池上氏は「間違ったら謝る。せっかく勇気をもって訂正したのに、おわびがないと無になる」と指摘している。それはおそらく多くの読者が感じたことだ。
私ども一般企業も、そのような場合、メディアからの厳しい指摘を率直に受け入れている。しかし今回朝日はなぜ、自ら指摘してきたことを自らのケースに適用できなかったのだろうか。
9月11日の木村伊量(ただかず)社長の謝罪の記者会見は、吉田調書についての謝罪が主で、従が慰安婦問題だった。事の重さからすれば主従が逆ではないか。また、8月5日の慰安婦問題の特集のときに、吉田調書問題も一緒に取り消すことができなかったか、と思う。世に言う問題発生時のクライシスマネジメントとダメージコントロールが機能しなかったのが残念だ。
今後、朝日新聞は針のむしろに座らされ長く苦しい道のりを歩むことになろう。負の遺産を処理した後は、原点、すなわち経営理念・行動規範に立ち返るべきだ。朝日新聞の原点は明快だ。朝日新聞綱領には「不偏不党」「真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す」などとある。
報道人には、私ども金融人同様、高い職業倫理が求められている。それを改めて肝に銘じて欲しい。「疾風に勁草(けいそう)を知る」という言葉がある。今回の問題にきちんと対処し、苦境下でも「強い草」であることをぜひ示してほしい。