朝日・大学パートナーズシンポジウム愛する人の送り方・送られ方


2009年11月15日(土) 兵庫県西宮市・関西学院大学

【基調講演】死の瞬間「いのちのバトンタッチ」

青木新門さん

 葬儀社での経験を書いた『納棺夫日記』を出版したのは16年前。その秋、俳優の本木雅弘君から電話がありました。ヒンドゥー教の聖地、インド・ベナレスで撮影された本木君の写真集に、その一節を引用させてほしいと。

 使われたのは、遺体を清める際に必死で逃げるうじを描写した場面。うじもいのちなのだ。そう思うとうじたちが光って見えた――。そんな内容の一節でした。

 遺体を焼く煙が上がるガンジス川のそばで、死を待つ人や観光客目当ての物売りがいたり、子どもが走り回っていたり。そんな混沌(こんとん)とした場所で彼は、生と死が当たり前のようにつながっていると実感したそうです。後日、彼が納棺夫日記の映画化を望んでいると知り、「あなたにしかできない」と手紙を書きました。

 7年ほどたって、話が動き始めました。やがて送られてきた脚本は、舞台が富山から山形になっていたり、石文(いしぶみ)という風習が加えられていたりしたため、私の名を原作者名から外してもらいました。いい映画になりましたが、本は本、映画は映画と思っています。

 映画のおくりびとは、亡くなった人を送りっ放し。そんな点も不満でした。人は死んだらどうなるのだろう、行き先が不安だと、今日を生きることはできない。私は、そんな思いを生い立ちの中で見いだしていました。

 私は8歳の時、満州(現・中国東北部)で終戦を迎えました。収容所で1歳の弟を亡くし、母は発疹チフスで隔離されました。そんな冬のある日、3歳の妹が枕元で死んでいました。私は遺体を石炭置き場まで運びました。誰か大人が焼いてくれるだろうと思ったのです。

 母と故郷の富山に帰り、おじの支援で早稲田大学に入りましたが、中退。その後、富山で飲食店を開きましたが、店は倒産しました。子どものミルクも買えない状態のとき、葬祭会社の求人を見つけました。

 当時、遺体を拭(ふ)くなどする作業は親族の仕事でした。しかし、それを手伝っているうちに納棺専従社員にさせられてしまった。話はおじにも伝わり、「親族の恥」とののしられ、絶縁されました。

 そのおじが、末期がんで危篤という知らせを受けました。おじを恨んでいましたから、正直「ざまあみろ」と思った。意識不明ということだったので、話すこともないだろうと、病院に行きました。自分のことしか考えていなかったんです。

 ところが、病室につくと、おじの意識が戻り、おじが手を差し出した。その手を握った瞬間、おじの顔が柔和になり、ぽろっと涙をこぼし、「ありがとう」と。私は土下座して号泣しました。

 その時、おじには、あらゆるものが輝いて見えていたのではないか。生と死が交差する一瞬に、そんな世界が現れるのではないか。それからは、ご遺体の顔ばかり気にするようになりました。そして、死の瞬間は皆、清らかで安らかな顔をしておられることに気づきました。

 97年、神戸で14歳の少年が連続児童殺傷事件を起こしました。「なぜ人を殺そうと思ったのか」という質問に、少年は「最愛の祖母を奪った死とは何かと思った。人を殺さないとわからない」と答えたそうです。彼は祖母の死の瞬間を見ていなかった。

 祖父の死の瞬間を目にしたある14歳の少年は、こんな作文を書きました。「おじいちゃんが亡くなろうとしている時、そばにいて、とても寂しく悲しくつらくて涙がとまりませんでした。その時、おじいちゃんは僕に、人間のいのちの尊さを教えてくださったような気がしてます」。少年は死を五感で認識したのです。

 私もおじの死に立ち会っていなければ、今も憎んでいたと思います。死の現場で「いのちのバトンタッチ」があるのです。