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あのとき、パーソナリティーたちが伝えたかったこと。東日本大震災から6年。いま考える「ラジオの役割」。

大竹まこと

大竹まこと

 揺れを感じたとき、2時間半の生放送の番組は、後半にさしかかっていた。

 東京・浜松町の文化放送。ビルの9階にあるスタジオで、向かいに座った金曜日のパートナーの室井佑月が、その日のゲストを紹介する原稿を読んでいた。初めは2だったスタジオ内の震度計の数字が、みるみるうちに5弱を表示。椅子を強くつかんだ。

 「震度計の数字が上がっていくのに室井が読み続けているから、『ちょっと』と遮って。後で聞いたら、怖くてやめられなかったらしい」。番組はすぐにニュースに切り替わった。しばらくして窓の外に目をやると、お台場の方から大きな黒い煙が上がっていた。

 平日午後1時からの「大竹まこと ゴールデンラジオ!」。3日後の月曜日も放送したが、その時のことはよく覚えていない。「恐らく忘れたい気持ちもあって」。テレビで繰り返し流れる津波の映像。どんどん増える犠牲者の数。「本当にこの国のことなのか、とリアルに受け止められなかった。想像することを遮断したかったのかもしれない」

1人に届けば、それでいい

 被災地にはその後、仕事やプライベートで7回ほど訪れた。

 宮城県気仙沼市では、流された家の土台だけが残る荒れ地を歩いた。「あちこちに人が集まっていて、慟哭(どうこく)がウワーって聞こえてね。ここが静かになると、また向こうから聞こえてきて」。石巻市では、津波で多くの児童が亡くなった大川小学校を訪ねた。

 仮設住宅で老人と話していた時。テレビで見た、孫を2人流されてしまった人だということに気づいた。「そしたら何も聞けなくなっちゃったね」

 震災から半年後の11月3日。浜松町で開かれた文化放送の震災復興イベントの会場で、岩手から来た父子に声をかけられた。津波にのまれ、6人家族で2人だけが助かったという。小学生の息子は「いつもパソコンで大竹さんのラジオを聞いています」と話した。「その子の目に恐怖が宿っていて。その彼らが電車賃を使って来てくれたと思うと、いやーと思って……」

 直後のトークイベントで大竹は父子との出会いに触れ、声を詰まらせながらこう語った。「番組をたくさんの人に聞いてもらいたいとは思わない。1人聞いてくれてたら俺はいいの! 1人が『あのバカの言ってたことが背中を押してくれたな』って思ってくれたら、ラジオの役目はそこにあるなって。今日は、俺の1人のリスナーに会えたから、うれしかったです」

 父子とはその後も、毎年続くイベントで再会したり、時には電話で話したりと、交流が続いている。

 震災前から、ラジオはほかの媒体よりもリスナーとの距離が近いと思っていた。「ラジオの良さは、自分の言葉が直接届いて笑ってもらえること。俺は笑わそうとしか思っていないの。励まそうなんておこがましい。こんな駄目なやつでもしゃべって生きられるんだと思ってもらえたら」

 6年たったが、原発の問題は解決から遠く、人々の意識の変化も感じる。今までは被災地に少しでも寄り添いたいと考えてきたが、これからは全体を見渡し、俯瞰(ふかん)した見方でちゃんと伝えたいと思う。「日本中のみんなで問題を共有して、手立てを考えていかないといけないから」

大竹まこと

 1949年、東京生まれ。79年にきたろう、斉木しげると「シティボーイズ」を結成。81年にテレビ番組「お笑いスター誕生」で10週続けて勝ち抜く。俳優として映画、ドラマでも活躍。現在は文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ!」(月~金曜、午後1時)に出演中。

サンドウィッチマン

 放送開始の1分前まで、迷っていた。

 震災発生の1週間後、3月18日深夜のニッポン放送「オールナイトニッポン」。仙台出身のお笑いコンビとして被災地のリスナーを励ましてほしいと、出演が決まったのは2日前だった。

 当時、地元のラジオで流れるのは災害情報ばかり。「サンドウィッチマンが出るなら、その2時間だけ宮城でも放送する」と告げられた。

 番組の冒頭は、得意のショートコントで始めたい。自粛ムードの中、笑いたい人もいるはず。だが、被災者は今、笑いを望んでいるのか――。まじめに現状を伝えるべきか、芸人らしく明るくいくか、ぎりぎりまで2人で話した。

あの音が、忘れられない

 震災の当日は、テレビ番組のロケで気仙沼にいた。仕事を終え、引き揚げようとしたその時。立っていられないほどの揺れを感じた。

 スタッフの指示ですぐロケバスに乗り込み、近くの安波(あんば)山へ。だが「津波といえば何十センチというイメージ。その時はちょっと見てみたいという感じでいた」(富澤)。しかし目の前に現れたのは、海が気仙沼の町を覆っていく光景。さっきまでロケをしていた場所がのみ込まれ、湾の中は洗濯機のように海水が渦を巻いた。「船同士がドーンとぶつかる音が大きく響き、車はクラクションを鳴らしながら流されて。その音が忘れられない」(伊達)

 夜は気仙沼駅前のホテルのロビーで過ごした。住民や近くの自動車教習所の生徒たちも一緒。ろうそくの明かりの中で、缶詰などを分け合って一夜を過ごした。町中が停電しているのに、火事の炎で外は明るかった。「ここもどうなってしまうのか、何かあったらどう逃げようかと考えていた。怖かった」(富澤)。

 大きな余震が続き、耳を澄ませていたラジオからはなじみのある地名の被害状況が流れ、犠牲者の数が増えていく。「震えるような情報が、ラジオから聞こえてきた」(伊達)

 翌日、ブログに「東北をナメるな!」と書き込み、東京に戻るとすぐに義援金を集める活動を始めた。「あの津波を目の当たりにして、おかしいくらいに何かしないといられなかった」(伊達)

なんで泣くんだ、笑ってくれよ

 悩みながらも番組冒頭で披露したコントは、CDショップの店員と客がテンポ良く掛け合う、ライブなどで定番のネタ。番組では家族で聞けるアニメソングや、気持ちが前向きになれる曲をかけた。放送中、約1万通のメールが届いた。「ショートコント、聞いていて泣きました」というメッセージも。「なんでコントで泣くんだ、笑ってくれよと」(富澤)

 被災地出身の芸人で、しかもラジオだったからできたと思う。こんな状況でもやっぱり笑いたいんだ、やってよかった、と思った。

 これまでチャリティーライブや講演などで被災地は何度も訪れ、集めた義援金は約4億円にのぼる。だが、時がたつにつれて「まだ震災のことをやっているの」という声が耳に入ることもある。「震災の色がついちゃうと、芸人として笑えなくなると言われたり。悩む部分もあった」(伊達)。「何をやるにしても覚悟が必要だった。お笑い芸人としてはダメになるかもと」(富澤)

 でも別にいい、と今は思う。それ以上に面白いことができるように頑張るだけだ。たくさんの人に東北に足を運んでもらい、がんばっているところや震災の爪痕を見てもらうことが自分たちの仕事。2人は「やり方は年々変えながらも、ずっとやっていきたい。それが命を生かされた僕らの使命です」と話す。(取材:真田香菜子)

サンドウィッチマン

 ともに1974年生まれで仙台出身、仙台商業高ラグビー部の同級生だった伊達みきおと富澤たけしが、98年に結成したお笑いコンビ。2007年M―1グランプリ優勝。現在「みやぎ絆大使」として県をPR。ニッポン放送「サンドウィッチマンの東北魂」(毎週日曜午後7時40分)に出演中。