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09月21日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

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(被災地で生きる)共に歩む、彼と町と 山口→南三陸

写真:2人が出会った南三陸町の志津川地区を見下ろす山内美穂さん(右)と夫の克也さん拡大2人が出会った南三陸町の志津川地区を見下ろす山内美穂さん(右)と夫の克也さん

デザイン:2011年3月1日〜12年11月1日の住民の動き=宮城県まとめ拡大2011年3月1日〜12年11月1日の住民の動き=宮城県まとめ

 涙をようやくこらえた。

 がれきから見つかる食器や布団、電子レンジ、そして家族の写真。「ここで生きていたんだ……」

 2011年8月16日、弘中美穂さん(27)は南三陸町に入った。管理栄養士として山口市の小学校に勤めながら、アジアやアフリカで栄養指導のボランティアに就く夢を抱いていた。そこに起きた東日本大震災。行き先を被災地に変えた。

 志津川地区に入った時、車窓から、裾野に木がない山々や更地が見えた。「映画みたい」。ふわっとした感じだった。20人ほどの仲間と仮の町役場近くでテント生活をしながら、ボランティア活動に加わった。

 被災者は優しかった。支援イベントを手伝っている時、「お陰で元気になれるよ」と菓子をくれたおばあさん。タコ漁を手伝いながら足手まといになっていると気にしていると、「休み休みでいいからね」と笑ってくれた漁師さん。「この優しさと強さは、どこから来るのだろう」と思った。

 7日間の活動が終わった。メールアドレスを交換した仲間に、志津川で生まれ育った山内克也さん(28)がいた。「カツさん」と呼ばれ、初日に仕事を説明してくれた。特に意識していたわけではなかった。

 山口市に帰ると、彼から活動を知らせるメールが届くようになった。「頑張って」「体に気をつけてね」。簡単な返事を送り返した。それが彼の心に響いているとは思わなかった。

 ◇ ◇ ◇

 翌月19日。再び志津川に。廃虚になった町を見下ろす神社で暮らしながら、仮設住宅にコミュニティースペースを設けたり、復興市場を手伝ったりした。

 21日夜。「好きなんだ」と社務所で告白された。「うん」。この短いやり取りを仲間が見ていた。翌朝、みんなに祝福されて、2人は恋人同士になった。

 再び戻った山口市でも、夜ごと電話で語り合う日々が始まった。12月中旬。その電話で「結婚しよう」と突然言われた。「あ、はい」と、また短く答えた。

 年が明け、1月下旬に両親に打ち明けた。父貢さん(59)は一言「そうか」。母典子さん(52)も「幸せになれるんなら、それでいいよ」と言った。

 「いい人に巡り合ったのだから、被災地に嫁いでも心配や不安はありません」。父母は口をそろえる。

 3月いっぱいで小学校の任用が終わると、彼の元に行った。4月14日に婚姻届を出し、名字が変わった。夫は「2人で頑張っていこうね」と言った。顔見知りになった町の人たちは「大変だけど、何かあったら遠慮なく言ってね」と声を掛けてくれた。

 津波を免れた南三陸町の夫の実家を11月に出て、今は2人で登米市に住む。震災で水産加工会社の仕事を失った夫は市の緊急雇用創出事業で市内の会社に勤め、自分も管理栄養士の資格を生かして市内の診療所で働き始めたからだ。

 2人とも、今年3月に今の職場で働く契約が切れる。その後のことは決まっていない。それでも、夫は「復興に貢献したいし、応援してくれた人たちにも恩返しをしたい」と言う。

 「私も復興していく町を見ていたい。町の人たちともっと仲良くなりたい。またボランティア活動をしたい。記憶の風化が進む被災地の今を発信したい」

 生きていく。新しい家族とともに。被災地で。(鈴木剛志)

       ◇

 東日本大震災の津波に襲われ、人口が大きく減った自治体もある。しかし、あえて県外から被災地に移り住み、復興に役立とうと奮闘する人たちもいる。彼らの生き様を描く。

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