メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

10月22日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

新着記事一覧へ

このエントリーをはてなブックマークに追加

(被災地で生きる)一人でも帰らない 東京→石巻

写真:住民から頼まれ、家の雨どいを調べる遠藤太一さん=宮城県石巻市鮎川浜拡大住民から頼まれ、家の雨どいを調べる遠藤太一さん=宮城県石巻市鮎川浜

 牡鹿半島の南のはしにある石巻市鮎川浜。津波で住宅の基礎だけが残った集落を海からの風が吹き抜ける。横浜市出身の遠藤太一さん(39)。もじゃもじゃの長い髪がたなびく。

 通りがかりの住民に「頼みたいことがあるんだけど」と声をかけられ、笑顔で応じる。「後から行きますからぁ」

 ◇ ◇ ◇

 6年前に交通事故にあった。手足には後遺症でまひが残り、3月11日に大地震が起きた時は通い先の東京都内の病院にいた。杖や車いすが手放せない時期もあったが、多くの友人に支えられ、家具や車用品を売るネットショップを営んできた。「今度は自分が人を助ける番」。ボランティアに生まれて初めて身を投じた。

 友人に声をかけると、水や食料などの支援物資はすぐに集まった。仕事を投げ出し、住んでいた東京都港区から仙台市に車で向かった。さらに被害がより深刻と聞いた牡鹿半島へ、自衛隊の後に付いて入った。

 想像以上だった。

 がれきが山積みの集落で頼まれた。「遺体が電柱にひっかかっている。手を貸してくれ」。手伝う勇気はなかった。そこここに人の死があった。

しかし、そこで働く地元の人たちの姿に心を動かされた。自身の病気を隠して働き続けたり、津波を免れた自宅を避難所として開放したり。そんな市職員がいた。地元の警察官は顔見知りだった住民の遺体検分を黙々と続けていた。被災地から離れられなくなった。

 活動の場所を牡鹿半島に定めた。石巻市中心部から支援物資を運んだり、炊き出しをしたりする一方、全国から集まるボランティアの差配も担った。

 鮎川浜の牡鹿公民館に住み込んだ。津波で浸水し、一時は遺体の安置所にもなった場所だ。ここには全国からボランティアが集まり一時は70人ほどもいた。震災から1年半ほどで、遠藤さん一人になった。

 しかし、津波で壊れた住宅の改修や、倒れたままの墓石の立て直しなど、今でも住民からの頼まれごとは絶えない。ツイッターで「がれき撤去の仕事あり」とボランティアを募りながら、自身も被災地を走り回る生活が続く。

 体調を気にしながらも、庭木の枝を切ってほしいと頼まれれば自らチェーンソーをふるう。貯金を取り崩しながらの生活。東京へ帰るつもりはまだない。やるべきことは、まだまだあるからだ。

 勉強が滞りがちな地元の子どもたちの学習支援も始めた。ネットショップを手がけてきた経験も生かし、地元特産のカキやワカメ、ホヤなどを全国に売り込めないかも模索している。

 「私がここを出るのは、みんなが仮設を出てしっかりした家に入り、恒久的な仕事ができるようになったときです」(福島慎吾)

       ◇

 東日本大震災の津波に襲われ、人口が大きく減った自治体もある。しかし、あえて県外から被災地に移り住み、復興に役立とうと奮闘する人たちもいる。彼らの生き様を描く。

PR情報
検索フォーム

被災地で生きる 最新記事

検索

亡くなられた方々

| 記事一覧

ハッシュタグ #震災遺構

※Twitterのサービスが混み合っている時など、ツイートが表示されない場合もあります。

注目コンテンツ