メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

08月23日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

新着記事一覧へ

このエントリーをはてなブックマークに追加

(被災地で生きる)再生、地元の若者と 東京→気仙沼

写真:ニット帽姿の加藤拓馬さん(中央)を囲み、子どもたちと触れ合う方法を考える「からくわ丸」のメンバー=気仙沼市唐桑町拡大ニット帽姿の加藤拓馬さん(中央)を囲み、子どもたちと触れ合う方法を考える「からくわ丸」のメンバー=気仙沼市唐桑町

 気仙沼市唐桑町には、若者から「ホーム」と呼ばれるプレハブ小屋がある。3月5日夜、17歳から33歳の男女17人が集まった。

 「唐桑の子どもと触れ合うために何をするか」。全員が付箋(ふせん)紙にアイデアを書き、模造紙に貼っていく。町歩き、釣り、虫取り、スケッチ。輪の中心に加藤拓馬さん(24)がいた。

 小学校に入る直前、阪神大震災に神戸市の自宅で遭い、兵庫県姫路市の親戚宅へ。友達と離ればなれになった。父と母はけんかをするようになった。「みんな、ぎすぎすしている。人間関係が奪われた」。幼い心に思った。

 早稲田大に進み、ボランティアサークルに入った。「海外に行けるから」という軽い思いは中国のへき地に行って吹き飛んだ。

 ハンセン病の患者だった人たちの村。村長の手には指がなかった。差別にも出くわした。家を直したり、不自由な体でも歩きやすいように道路をつくったり。そんな作業を通じて、リャオさんという老いた元患者と仲良くなった。

 「壁にぶち当たったらどうすればいい?」と聞いたことがある。彼の答えは「静かに考えなさい」。

 自分なら絶望している。優しく、強く生きる人。こういう人たちのために世界を変えてやろうと思った。

 2010年12月、中国での最後の活動はリャオさんの墓をつくることだった。「まだ、世界を変えられていない」。心でわびると、リャオさんの声が聞こえた。「次へ進みなさい」

 東日本大震災の翌月、唐桑に入ったのも、ハンセン病と関係がある。

 40年前、合併前の旧唐桑町長選にハンセン病の元患者が立った。当選こそ逃したが、多くの票を集めた。そんな町の危機。IT企業の内定を辞退し、東京都中野区の下宿を引き払った。

 唐桑で阪神大震災の記憶がよみがえった。「壊れたのは家だけじゃない。人と人のつながりもだ」

 昨春、唐桑に住所を移した。町づくりサークル「からくわ丸」を立ち上げ、代表に就いた。月に1度、町の人と都会の大学生が町を歩くイベントを開く。ウニ漁に使う箱めがね、ほこら、石碑。地元で当たり前のものに魅力を見つけてもらう試みだ。

 「あげるから」という意味の無料誌「KECKARA(けっから)」を時々出し、復興に尽くす人々を紹介。学生と子どもたちとの交流も大切にしている。

 町づくりには「若者」、愚直に進む「バカ者」、物事を客観的に見られる「よそ者」が必要だと思う。

 「でも、僕が主役じゃいけない。できるだけ早く、からくわ丸が地元の団体になって欲しい」

 この団体は県外出身5人を含む8人で始めた。今は16人のうち10人が唐桑の若者。「外から来た人ががむしゃらに頑張ってくれているのに、何もしないわけにはいかない。刺激を受けている」。地元の会社員梶原政芳さん(33)は話す。

 唐桑の未来に向けて出航したからくわ丸。かじ取りは加藤さんから、唐桑の若者の手に移りつつある。(鈴木剛志)

PR情報
検索フォーム

被災地で生きる 最新記事

検索

亡くなられた方々

| 記事一覧

ハッシュタグ #震災遺構

※Twitterのサービスが混み合っている時など、ツイートが表示されない場合もあります。

注目コンテンツ