雲間に浮かぶ「天空の城」として兵庫県の竹田城が近年話題だが、厳密にいえば石垣のみが残る「城址」であって城(建築物)は現存しない。ところが、江戸時代以前の天守閣が現存する城の中に、竹田城より高い「もうひとつの天空の城」がある。岡山県高梁(たかはし)市の臥牛(がぎゅう)山頂にそびえる備中松山城だ。江戸時代三百藩で山城を藩庁として幕末まで使い続けた藩は少なく、現存12天守の中で山城は備中松山城だけ。日本の築城史を知る上でも重要な存在で、岐阜県の美濃岩村城、奈良県の大和高取城と並んで日本三大山城に数え上げられている。

天守閣が現存する最高所の山城

 中世から戦国時代にかけての城は純粋な軍事施設であったため、防衛に有利な山上に築かれることが多かった。それが太平の世となると領主の居館、政治経済の中心としての役割が重要になり、生活や交通に便利な平地に移っていく。そのため上杉謙信の春日山(かすがやま)城、浅井長政の小谷(おだに)城など、戦国史上名高い城の多くが廃城となった。しかし備中松山城は中世城郭を江戸時代に改修したもので、山頂の天守閣は標高約430m。城下から高さが300m以上もある。これでは往来があまりにも不便で増築スペースもないので、江戸時代には中腹に御根小屋(おねごや)という館を建てて、藩主の生活や日常の政務に当てていた。

 備中松山藩は五万石の譜代で、江戸時代に何度か領主が変わっている。旧領主が栄転の場合はともかく、お家断絶で新領主が入国する場合には、当事者同士に任せていると城の受け渡しをめぐって新旧両派の軍事衝突さえ起きかねない。そこで幕府は適当な藩を監視役に任命する。水谷家が安藤家に変わったときの監視役は赤穂藩で、現地に乗り込んだ領主が浅野内匠頭、実務担当が家老大石内蔵助だった。「昼行灯(ひるあんどん)」のあだ名があったという大石内蔵助の大仕事で、「松の廊下の刃傷事件」が起きる少し前のことだ。

 幕末時の領主だった板倉氏は京都所司代として活躍した板倉勝重(かつしげ)を始め能吏を輩出した家系だった。幕末時の当主、勝静(かつきよ)は老中首座(筆頭)として政界の中心人物の一人。幕府の最重要職である老中は、徳川家側近である中堅の譜代大名の仕事だったのだ。勝静は養子で祖父はやはり老中首座として寛政の改革を行った松平定信だ。つまり、備中松山の領主であると同時に、徳川家(松平家)と非常に近い立場の人物だった。そのため徳川慶喜側近として鳥羽伏見、東北、函館と転戦し、結果的に「朝敵」を代表する人物となってしまった。当然新政府側は武力制圧を前提に、備中松山藩に開城を迫ってくる。

時代の荒波をくぐり抜けた「朝敵の城」

 幕末の備中松山藩には、二十万石の大名に匹敵する農兵を中心にした鉄砲組があり、長州出兵でも先鋒になったという。しかしこれは幕府軍の一部として行動することを想定しており、五万石の小国に独自の軍事行動を起こす力はない。そもそも、幕府軍中枢として日本中を逃げ回っている藩主とはろくに連絡もとれない。困った立場に置かれた備中松山藩は不在中の藩主を説得して降伏させ、城を無血開城すると新政府軍に約束し、いわばクーデターでこの難局を乗り切った。

 幕末の戦乱の中で多くの城が破壊され、また明治時代の廃城令によって、旧体制の象徴であった全国の城は解体されていった。それなのになぜ「朝敵の城」が生き残ることになったのだろう。実は備中松山城も競売にかけられたが、天守閣が山上にあるため跡地の再利用のめどが立たず解体費用もかさむため、落札者がそのまま放置したのだという。城下に近かった御根小屋は解体・再利用され、跡地は岡山県立高梁高校となっている。山城が思わぬところで「天然の要害」の威力を発揮したことが、山城唯一の現存天守を後代に残すこととなった。