 運糧画像磚(うんりょうがぞうせん、5世紀後半、南京博物院蔵)=3点のうち一番下など
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 黄釉白彩連珠文碗(おおゆうはくさいれんじゅもんわん、中国社会科学院考古研究所蔵)
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 黄釉緑彩長頸瓶(おうゆうりょくさいちょうけいへい、南京博物院蔵)
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 褐釉胡人楽舞文扁壺(かつゆうこじんがくぶもんへんこ、中国国家博物館蔵)
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 青磁鳳首瓶(せいじほうしゅへい、故宮博物院蔵)
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6月18日(日)まで宮城県多賀城市の東北歴史博物館で開催中。問い合わせは022-368-0101
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中国・唐代(618-907)に花開いた国際色豊かな文化は、どんな背景から生まれたのでしょうか。漢(BC206-AD220)の滅亡から唐の建国までの約400年間は、多くの小国が分立して争った暗黒時代、との見方が一般的でした。ところが発掘などに基づく近年の研究で、魏晋南北朝とよばれるこの時代の、活力に満ちた実像が明らかになりつつあります。北方から侵入した遊牧民族と南方に逃れた漢民族の文化が融合する一方、イラン系のソグド人らが西方からもたらした珍奇な品々も大いに刺激となったようです。華やかな唐の伏線としての東西・南北文化のダイナミックな交流を、3世紀から8世紀までの陶磁器、青銅や金銀器、ガラス、石彫、染織などの出土文物210点でたどる、野心的な展覧会です。
漢の滅亡後、魏呉蜀の鼎立時代を経て、統一王朝である西晋(265-316)が誕生。洛陽を首都と定めますが、ほどなく内乱と遊牧民族の侵入で滅びます。西晋の王族は南に逃れ、建康(現在の南京)を都として東晋(317-420)を建国。以降、建康を主都とする南朝のいくつかの王国によって、6世紀末の隋(581-618)による統一まで、漢民族固有の文化が受け継がれるのです。荷を運ぶ馬と馬丁(ばてい)を描いた運糧画像磚(高さ19cm)は、南朝時代の墓の壁面タイル。優美な曲線から、貴族文化が匂い立つようです。
華北では西晋の滅亡後、五胡とよばれる北方遊牧民族同士が、16もの国を建てて目まぐるしく覇権を争います。これを制したのが、鮮卑(せんぴ)・拓跋部族の北魏(386-534)でした。仏教を信じ、初め平城(現在の山西省大同)郊外の雲岡、洛陽に遷都後は南郊の龍門などに壮大な石窟寺院を造営。漢人を登用しつつ、漢化政策を押し進めます。遷都後は墓に副葬する人形の俑(よう)の体形は次第にスリムに、服装も胡式から漢人風へと変化します。西方のガラスもしくは金属器を模したと思われる黄釉白彩連珠文碗(6世紀前半、高さ5.6cm)は、北魏・洛陽城内の市場跡から1985年に発掘されました。交易品の影響で誕生した新しいタイプのやきものです。河南省安陽市の墓から出土した黄釉緑彩長頸瓶(高さ22cm)も、のちの唐三彩を予感させる品として重要です。こちらは北斉(550-577)の武平6年(575)の埋葬と確認出来ます。北魏以降が北朝。最後の北周(557-581)も同じ鮮卑出身の隋によって滅ぼされ、さらに南朝の陳(557-589)も併合されて、南北分裂の時代はようやく終わるのです。
黄釉緑彩長頸瓶と同時に出土した褐釉胡人楽舞文扁壺(高さ20.5cm)に、西方の文物を中国へ運んだとされるソグド人らしい姿が、線刻で描かれています。楽器を演奏し、舞い踊るこれらの人々は中央アジアの出身とされ、ゾロアスター教を信じ、4-8世紀にはシルクロード交易に活躍したようです。玄宗と楊貴妃のロマンスに終止符を打った安禄山も、ソグド人と見られています。7世紀、唐代の青磁鳳首瓶(高さ約42cm)は、ペルシャや西アジアの器形とパルメットなどの文様に、伝統的な中国の鳳凰や龍を組み合わせた独特の様式。東西交流抜きには生まれなかった造形でしょう。近年、陝西省西安や山西省太原、寧夏回族自治区の固原などでソグド人の墓が相次いで見付かり、注目されています。今回の展覧会にも、火の祭祀や狩猟風景を浮き彫りした白大理石の墓室が出品されています。
この展覧会はニューヨークのメトロポリタン美術館が企画し、2004年10月から翌年1月にかけて“CHINA Dawn of a Golden Age, 200-750 AD”のタイトルで実施しました。同美術館では、作品選定と出品交渉などの準備に、約4年をかけたそうで、スケールの大きな発想ともども、大いに学ぶべきでしょう。米国展終了後の2005年3月から6月に香港・文化博物館にほぼ同内容で巡回。その後、日本側で一部の作品を入れ替え、2005年7月から国内3箇所で開催し、今回が最終会場です。
(05/28)