 色絵唐花文変形皿(1650年代、佐賀県立九州陶磁文化館蔵、白雨コレクション)
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 瑠璃釉豆文葉形皿(1650年代、佐賀県立九州陶磁文化館蔵、柴田夫妻コレクション)
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 色絵椿文輪花大皿(1650年代、鍋島報●会蔵)●の読みは「こう」で、交へんプラス枚のつくり
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 色絵唐花文変形皿(1660―80年代、佐賀県立九州陶磁文化館蔵)
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 重要文化財 色絵桃文大皿(1690―1730年代、MOA美術館蔵)
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11/12(日)まで有田町の佐賀県立九州陶磁文化館で開催中。問い合わせは0955―43―3681
12/2(土)―07.1/23(火)熱海市のMOA美術館、引き続き大阪市立東洋陶磁美術館、福島県立美術館でも予定
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JR佐世保線有田駅近くの高台にある佐賀県立九州陶磁文化館は、昭和55(1980)年に開館しました。現館長の大橋康二さん(1948―)は青山学院の大学院生から、開館時に学芸員として着任。その直後のインタビューで、「これから何をするんですか」と訊ねたところ、次のような答えが返って来たのをよく覚えています。
「これまでに発掘された伊万里焼の陶片は、有田町内や佐賀市内などに分散保存されています。これをすべて館に集め、文様や形などが年ごとにどう変化したかを調べます。次は各地の遺跡からの出土品を調査して、流通ルートを追います。恐らくこれで時間切れでしょうね」
インタビューから約25年。大橋さんの言葉通り、17世紀以降の伊万里焼の編年は、ほぼ20年刻みで明らかになりました。海外も含めた流通の実態も、かなりの程度まで解明されたと言って良いでしょう。伊万里焼は商品ですが、江戸時代の肥前・佐賀には、これとは別にもう一つ、売買の対象とならない特殊なやきものが存在しました。鍋島藩は伊万里焼の生産地である有田から直線距離で北へ10km足らずの伊万里市大川内の山中に選りすぐった陶工を集め、生活を保障しつつ、明治維新まで、採算を度外視して生産を続けました。これが国産磁器の最高峰とされる鍋島です。今回の展観は、大橋さんが従来の鍋島研究に、幕府からの指示に基づく制作と献上という新たな視点を加えて構成した、注目すべき展覧会です。
初の国産磁器である伊万里焼は17世紀初頭に誕生しました。秀吉が朝鮮半島への出兵時に連れ帰った陶工が、有田の泉山などで白磁鉱を発見したのが契機とされます。磁器は当時のハイテク製品で、長い間中国の独壇場でしたが、1640年代に明末の戦乱で輸出がストップ。日本に肩代わりを求めるオランダ東インド会社の要請で伊万里焼が急成長を遂げ、ヨーロッパ向け輸出の花形となるのです。鍋島が、輸出景気に沸く有田の隆盛を背景に誕生したのは間違いないでしょう。大川内に集められた腕利きの陶工のリーダーだった副田喜左衛門一族の系図に、御道具山が承応・万治年間(1652―61)まで岩屋川内にあり、寛文年間(1661―73)に南川原に移ったのち、延宝年間(1673―81)ごろ大川内に定着したと記載されています。大川内には巨大な窯址が残っており、数多くの鍋島陶片も出土していることなどから、この地で生産が始まったとする見方が定説となった観がありました。
今回の展覧会のポイントはいくつかありますが、その第一は、鍋島の創始時期を1650年代の承応・万治年間とし、色絵唐花文変形皿(口径16×12.6cm)や瑠璃釉豆文葉形皿(同17.2×10.8cm)を始めとする一群の小皿類を、岩屋川内で作られた御道具、すなわち草創期の鍋島と位置付けた点にあります。これらは従来、松ヶ谷手と呼ばれたグループです。大橋さんはその中から、(1)素焼きしている(2)裏面が白無地(3)底部の高台内に焼成時の変形を防ぐための針支えの跡がない(4)高台畳付を3方向から削って断面をU字に調整している、の特徴を備えた製品を抽出し、鍋島の仲間入りをさせたのです。大川内で出土する鍋島の皿類には、裏文様と高台部分に櫛目などの文様を備えた品が多く、(2)は必ずしも該当しませんが、他はすべて共通する特徴です。岩屋川内にある3つの古窯址のうち、1969年に一部発掘調査された猿川の出土品から、大橋さんは鍋島の特徴を備えた松ヶ谷手の素地と一致する陶片を探し出しました。副田家の系図の記述が初めて具体的に裏付けられたわけです。
もうひとつのポイントは鍋島が作られた理由です。鍋島家には関ヶ原の戦いで豊臣方に加担した負い目がありました。取り潰しに会わないよう、将軍家や幕閣の有力者への気遣いは欠かせません。それには贈り物をというのが、今も昔も変わらぬ真実でしょう。鍋島藩は貿易の窓口だった長崎の警備を、隔年で担当していました。この立場を利用して、当初は輸入中国陶磁を贈答にあてたようです。明末の戦乱もあって、これが特産磁器に変わって行きます。大橋さんは徳川実紀にある、慶安4(1651)年4月19日に三代将軍家光が「今利新陶の茶碗皿御覧ぜらる」の記述に注目しました。この日は家光死去の前日で、尋常ならざる状況下での内見は、定期的な献上に相応しいか否かを確認するためだったと考えるのが合理的、と判断したようです。これを受けて、翌年ごろから岩屋川内での献上品生産がスタートした可能性が高いのです。色絵唐花文変形皿の顔料は青手古九谷を思わせますが、どちらも草創期の有田磁器ですから、似通っていて当然です。瑠璃釉豆文葉形皿と一致する陶片が、天和2(1682)年の火災(八百屋お七火事)で被災した東京大学構内の加賀大聖寺藩江戸上屋敷跡から出土しています。
鍋島藩の初代藩主勝茂(1589―1657)伝来の色絵椿文輪花大皿(口径38.5cm)も、1650年代に岩屋川内で作られたとみられる製品です。椿の輪郭線に、のちの鍋島に特徴的な呉須が使われている点に注目すべきでしょう。黒輪郭線の兄弟皿がもう一枚あり、どちらが献上品により相応しいかを判断するための試作品だったのかも知れません。
大橋さんは伊万里市大川内への藩窯移転の理由は、献上品のデザインの民間流用を防止するための隔離だったと述べています。移転の時期は副田家系図を根拠に従来、1670年代の延宝年間と考えられていました。しかし1999年の伊万里市による発掘調査で藩窯跡の南西200mに位置する日峯社下で、色絵唐花文変形皿(口径16.9×14cm)を始めとする様々な初期タイプの鍋島陶片が発見されました。この変形皿の制作年代は1660―80年で、延宝より遡る可能性が指摘されています。大川内での制作を考える上で重要なのは、二代藩主光茂(1632―1700)が元禄6(1693)年に有田皿山代官に宛てた指令書(手頭)でしょう。光茂は献上品の質が「以前に打替り悪しく」「毎歳同じ物にて珍しからず」と、品質低下とマンネリ化を指摘。民間の窯の製品で「珍しき模様の物有之は書付を取 其方へ差出」、つまり有田に優れたデザインがあれば、写して提出するよう求めています。こうして誕生したのが1690―1730年の制作とされる重要文化財 色絵桃文大皿(口径31.7cm、高さ8cm)に代表される最盛期の鍋島です。
指令の背景として、延宝8(1680)年に五代将軍となった綱吉の御成好きが作用したのではないかと、大橋さんは図録の解説で述べていますが、これも興味深い指摘です。御成とは、将軍の大名家などへの訪問を意味します。綱吉は元禄4(1691)年に8回も訪れたのを手始めに、宝永6(1709)年に死去するまで、繰り返し実施しています。接待に欠かせない食器として、鍋島への要求と需要が高まったというのです。
八代将軍吉宗の時代の節約令も鍋島の様式の変化に影響を与え、その結果、最盛期の色鍋島は終焉を迎えたと大橋さんは考えているようです。鍋島四代藩主吉茂(1664―1730)公譜(年譜)の享保11(1726)年4月の項に、例年献上の陶器について老中松平忠周から、種類の多い色絵具で飾ったものは制限するが、青磁はこれまで通りとする旨の指示があったと記されています。以来、赤、黄、緑の三色を使った贅沢な色絵は禁止され、染付が中心となったようです。色絵はこれ以降、赤など1色ないし2色の品が、少量作られるだけとなったというのです。鍋島の献上がデザインや数量にいたるまで、徹頭徹尾幕府側の意に沿う形で行われたのは間違いなく、その意味では政治性の高い特異なやきものと言えるでしょう。今回の展観は、約260点の展示品でその流れを跡付ける、初めての試みです。
盛期の鍋島は盃を大きくしたような皿で代表されますが、これに似た形と裏文様を持つ製品が、寛文年間に御道具山があったとされる南川原で出土しています。これが鍋島に取り入れられた可能性も考えられますが、それ以外の資料は未発見で、柿右衛門の窯がある南川原と鍋島の関係は、現在までのところ十分には解明されていません。
(10/01)