現在位置:asahi.com >ショッピング>やきもの>小野公久「やきものガイド」> 記事 朝日新聞社文化事業部企画委員として長年、陶芸など内外の美術展の企画運営を担当していた小野公久氏が、陶芸に関する基礎知識やおすすめの展示会情報などをわかりやすく紹介します。 「陶磁のこま犬百面相」展― 展覧会から ― 2007年01月07日 1/21(日)まで瀬戸市の愛知県陶磁資料館で開催中。地下鉄東山線藤が丘からリニモで陶磁資料館南駅下車600m。土曜と休日は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅から名鉄バスあり。問い合わせは0561−84−7474
◇ 昨年の干支(えと)は戌(いぬ)。それにちなんで大阪、町田、富山を巡回した展覧会の最終会場での開催です。今年は亥(いのしし)年では、とお考えの向きもあるかも知れませんが、さにあらず。干支は本来は旧暦の習俗ですから、厳密に言えば、旧正月の2月18日(日)が来るまでは、戌年が続いていると考えるのが正しいそうです???
陶磁研究家の小山冨士夫(1900−75)は1947年、瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前に越前を加え、日本の代表的な古いやきものに六古窯の呼称を与えました。愛知県陶磁資料館の井上喜久男・主任学芸員によるとその後の研究で、中世古窯の種類は現在では79にまで増えているそうですが、小山の卓抜なネーミングは、依然として健在です。このうち灰釉の掛かった12世紀中ごろの渥美が、人為的な中世施釉陶としては最も古く、六古窯では、12世紀末の瀬戸がこれに次ぐそうです。瀬戸(現在の愛知県)やお隣の美濃(岐阜県)地方の神社などには、褐色の鉄釉や黄みを帯びた灰釉で彩られた狛犬(こまいぬ)が、数多く残っています。
日本電話施設会社の創業者で、愛知県陶磁資料館設立にも尽力した本多静雄(1898−1999)は狛犬コレクターとしても著名で、収集した200体を同館に寄贈しました。今回展示された136件のうち96体が本多コレクション。これに神社などの所蔵品と遺跡からの出土陶片を加えた構成です。瀬戸の古窯址からの出土資料によると、生産の始まりは鎌倉末期の13世紀末から14世紀初頭と見られます。伝世品は15世紀、室町以降しか知られていません。口を開いた阿形(あぎょう)と閉じた吽形(うんぎょう)で一対を成し、南面する神社本殿に向かって右手(東側)と左手(西側)に、守護獣として鎮座していたようです。
展覧会を企画した愛知県陶磁資料館の神崎かず子・主任学芸員によると、室町・桃山期の瀬戸の狛犬は、元祖である獅子の面影を残すタイプと狼(山犬)を連想させるタイプにほぼ二分され、その中間型や何が祖形かはっきりしないタイプもあるそうです。鉄釉狛犬 阿・吽(高23cmと23.7cm)は獅子型。ピンとたった両耳や吊り上った眉が精悍な印象を与えます。応永25(1418)年の墨書銘のある名古屋市・伊勝八幡宮所蔵の鉄釉狛犬 阿・吽(高31.5cmと33.2cm)は鼻筋が通り、体つきもしなやか。鋭い目つきなどが山犬の野生を思わせるとされています。
江戸に入ると神社への奉納が増え、それとともに一段と多様化します。愛嬌のある顔つきの白釉狛犬 阿(高17.8cm)は、一見犬のようですが、見つめているとモデルが何なのか、よく分からなくなります。膨らんだ尾を持つ「釜屋村(岐阜県恵那市) 寛延四(1751年)」などの刻銘のある鉄釉白釉狛犬 吽(高58cm)はどう見ても狐としか思えません。丸々と太った鉄釉狛犬 吽(高29.5cm)は仔猪のウリンボウを連想させますが、正体は不明。ほかに猫を思わせる造形や、俳優の宇野重吉に似た顔立ちもあって、まさに自由奔放。何でもありのシュールな造形は、今日のマンガも及ばぬ面白さです。
展覧会図録に掲載された田邉三郎助・町田市立博物館長の解説によると、狛犬の祖形である獅子は、仏教や楽舞の伝来とともに奈良・飛鳥時代に日本にもたらされたようです。守護獣として仏像の脇に蹲踞(そんきょ)する姿や、光背の下部に線刻で表現された例が知られています。インドでは紀元前3世紀のアショカ王の石柱の彫刻が名高く、ガンダーラの石彫にも、しばしば登場します。中国へは後漢時代に伝わり、仏教伝来以降は守護獣として定着。唐代には陵墓を守護する役割を与えられて、墓道に鎮座しています。インド以西ではエジプトのスフィンクスが名高く、古代メソポタミアやペルシャでは、王権の象徴とされ、様々に表現されました。獅子はシルクロードを東進して、はるばる日本にやって来た聖獣なのです。
正倉院に伝わる獅子頭の伎楽面は天平勝宝4(752)年の東大寺大仏開眼会に用いられたとされます。宝亀11(780)年の西大寺資材帳には、高麗楽器の一種として角のある獅子の記述があり、田邉館長は、吽形の狛犬にしばしば見られる角は、朝鮮半島が起源である可能性を示唆しています。こうした楽舞は平安前期までに地方へと伝わり、様々に変容を遂げつつ寺社の供養時に行道の先払いとして演じられたようです。平安中期ごろには宮中紫宸殿に中国の賢聖とともに一対の獅子が描かれるようになったと考えられ、やがてこれらが神社の木造や石造の狛犬へと変化して行ったと思われます。
神崎主任学芸員は、比較的小型の陶製の狛犬が修験道の行者が背負う厨子によって各地に運ばれたとする先学の研究を紹介しています。また山の神の使いとされる山犬(狼)が、造形化された可能性も指摘しています。その意味では、江戸期の多彩で奔放な造形は、様々な民間信仰の反映なのかも知れません。 |