現在位置:asahi.com >ショッピング>やきもの>小野公久「やきものガイド」> 記事 朝日新聞社文化事業部企画委員として長年、陶芸など内外の美術展の企画運営を担当していた小野公久氏が、陶芸に関する基礎知識やおすすめの展示会情報などをわかりやすく紹介します。 生誕120年「富本憲吉」展― 展覧会から ― 2007年02月18日 3/11(日)まで世田谷美術館で開催中。東急田園都市線「用賀」、小田急線「成城学園前」「千歳船橋」、東急東横線「田園調布」の各駅から路線バスあり。問い合わせは03−5777−8600。4/7−5/27岐阜県現代陶芸美術館、6/30−8/19山口県立萩美術館・浦上記念館でも
◇ 富本憲吉(1886−1963)の回顧展としては、間違いなく、これまでで最大規模でしょう。展示品は約300件。陶磁器以外の資料だけでも、建築を学んだ東京美術学校(現東京芸大)卒業制作の住宅設計図案、ヴィクトリア&アルバート美術館などで描いた英国留学時の文様スケッチに始まり、美しく彩色した晩年の図案帖に至るまで、まことに膨大です。山に分け入る気分で眺めていて、ささやかな発見をしました。苦心の末に創出した文様やデザインのうち、作品化されたのはごく一部に過ぎないのです。ほとんどを捨て去って、二度と顧みようとはしていません。いくつかの主要な文様だけが、繰り返し用いられています。 2月11日に菊池寛実記念 智美術館で、乾由明氏の「富本憲吉の人と芸術」と題した講演を聞きました。乾氏は富本研究の第一人者で、現在は兵庫陶芸美術館長。話を通じて、東洋陶磁研究家小山冨士夫(1900−75)が、富本が亡くなって約2ヵ月後の1963年8月11日付朝日新聞夕刊に追悼文を寄せており、「猛々しい気迫に溢れた人物」と評していると知りました。この文章は『小山冨士夫著作集(中)日本の陶磁』(朝日新聞社刊)に再録されています。富本が、英国人バーナード・リーチ(1887−1979)との交流を通じて陶芸を己の道と定め、「模様より模様を造る可からず」のテーゼを指針とするに至ったのは、よく知られています。小山も、「かきにかきなぐった」文様のうち、実際に作品に取り入れたのはほんの一部に過ぎないと指摘。純潔で猛々しい気迫で、オリジナリティーについての信念を貫き通した生涯を、一筆描きにも似た簡潔なタッチで回顧しています。富本の代表作は金銀彩を施した華麗な色絵磁器とするのが通例ですが、小山は最大の傑作は白磁であって、「厳正な宋のやきものも及ばない、きびしさがある」とも述べています。 奈良・大和在住時代(1913−26)の大正8(1919)年に発表された初めての白磁壺(高16.5cm)は、頸部が極端に短く、光沢のない沈んだ色調です。乾氏によると、この造形の独創性は当時全く理解されず、「頸がないのは、轆轤(ろくろ)が満足に引けないからだろう」などと、散々に酷評されたそうです。昭和22(1947)年に記した「陶技感想五種」(京都国立近代美術館蔵)で富本は、マット調の肌について「若い日にフランスで、柔らかくふくよかなマイヨールの小像を見て思いついた」旨を披瀝。下図なしで思うがままに壺を轆轤成形したあと、青空の下に一列に並べ、最も形の整った3分の1を白磁に、それに次ぐ3分の1には呉須や彫線を施し、残りを色絵の素地とするとも述べています。「未だ白定に遠い私の白磁を その同一位置に迄漕ぎつけるのは モウ永くはない私の死に至る迄の望みであり 又責任であろふと考へる」との言葉からも、白磁への強いこだわりが感じられます。白定は宋代定窯白磁を意味します。 色絵金彩羊歯模様大飾壺(高23cm)は、亡くなる3年前の1960年に作られた、代表作の一つ。世田谷美術館の清水真砂学芸員によると、羊歯文様は奈良・安堵町の生家の堀端に生えていた株がヒントだったようで、5、6葉で1株が普通なのを連続文様に適するよう4葉1単位に改め、京都在住時代(1946−63)からしばしば用いています。壺の胴全体に赤で文様を描いた後、一部に金彩を重ね塗りして深みのある発色を得るよう工夫。単位ごとの文様の輪郭線が直線でなく波打っているのも、職人仕事とは別種の、暖かさと味わいを感じさせます。 金銀彩四弁花模様飾筥(高6cm)の四弁花は、東京在住時代(1926−46)に創出した文様です。安堵町から株分けして祖師谷の新居の玄関脇に植えた定家葛(テイカカズラ)の図案化。本来の5弁を4弁とし、連続する壺などの地文様に取り入れているほか、飾筥の場合には、花弁の捻れを生かして、動きと立体感を与えています。可憐で華やかな趣の小品。 色絵金彩染付「竹林月夜」模様大陶板(径31.5cm)の「竹林月夜」は、大正期から富本が繰り返し描いた故郷・安堵町の風景です。若き日のリーチと中国染付皿の文様について語り合いつつ散歩するうち、月明かりの下で細部が省略されて見える景色に触発されてこの構図を得たと、1945年の「高山帖」などに記しています。三つの倉と両側の竹、月の伸びやかな筆致は、周辺部の赤地金彩羊歯文と相まって、誠に清雅。眼をつぶっても描けるほど、思い入れの深い絵柄だったに相違ありません。 富本は、昭和初年からしばしば各地の窯場を訪ね、その土地の製品に自ら絵付けする試みを始めていました。誰もが入手可能で、しかも美しく、安価な品を提供したいとの思いは、晩年まで変わらなかったようです。色絵「花」字珈琲碗(6客、碗高6.9cm、受皿径15.6cm)は、量産用の試作品として1958年に制作されました。その旨の注記がある図案が残されています。京都国立近代美術館の松原龍一主任研究員によると、これをモデルに職人が作った品は絵付けの調子が硬すぎて、富本の意に満たなかったそうです。 乾氏によると、文様のオリジナリティーについての信念と量産へのこだわりは、若き日に英国の美術館で接した、ウィリアム・モリス(1834−96)の初期作品の影響抜きには、考えられないそうです。1950年以降は京都市立美術大学(現京都芸大)教授として、自らの技法を惜しみなく公開。近藤悠三や藤本能道らと共に数多くの弟子を育てました。「日本の近代陶芸の道筋を作った人物であり、その影響は今も続いています」との乾氏の言葉に、創造性豊かな生涯が要約されていると感じました。 |