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小野公久「やきものガイド」

朝日新聞社文化事業部企画委員として長年、陶芸など内外の美術展の企画運営を担当していた小野公久氏が、陶芸に関する基礎知識やおすすめの展示会情報などをわかりやすく紹介します。

岡部嶺男展 青磁を極める

― 展覧会から ―

2007年04月15日

 5月20日(日)まで、東京・北の丸公園内の東京国立近代美術館工芸館で開催中。問い合わせはハローダイヤル03―5777―8600、ホームページhttp:/www.momat.go.jp/。

写真青織部縄文鼎(1955年)
写真絵志野茶碗 銘岩清水(1957年、木村茶道美術館蔵)
写真粉青瓷砧(1969年、ポーラ美術館蔵)
写真粉青瓷瓶(1974年)
写真窯変米色瓷砧(1971年)
写真窯変嶺燦●(わん、怨の心の代わりに皿、1987年)

 6/27―7/10 名古屋市の松坂屋美術館、7/14―9/30多治見市の岐阜県現代陶芸美術館、10/17―12/6山口県立萩美術館・浦上記念館、12/15―08.3/2篠山市の兵庫陶芸美術館、7/5―9/7笠間市の茨城県陶芸美術館でも

    ◇

やきもの好きにとっては、待望久しい回顧展です。岡部嶺男(1919-90)ほど、優れた才能と過酷な運命を同時に与えられた作家は稀でしょう。1940年、東京物理学校(現・東京理科大)を中退して入営。中国、フィリピンを転戦し、九死に一生を得て47年、27歳で復員し、陶芸を再開します。54年、第10回日展で縄文を施した青織部壺が注目され、北斗賞を受賞。翌年、清水卯一(1926-2004)、熊倉順吉(1920-85)と共に第1回日本陶磁協会賞。この時期を代表するのが、55年の第11回日展入選作、青織部縄文鼎(高49.2cm)でしょうか。荒縄を巻き付けた羽子板状の棒で器面を叩き、文様を表現。今でこそ珍しくありませんが、縄文を現代陶芸に取り入れたのは、恐らく岡部が最初でしょう。中国古代の青銅器を思わせる鋭い造形と相まって、凄みさえ感じられます。織部釉や古瀬戸釉を掛けた縄文作品は年と共に奔放かつ自在に変貌しつつ、60年代末まで作り続けられたようです。

56年に日展を脱退。小山冨士夫(1900-75)の推薦で翌年、日本工芸会正会員となります。59年には第6回日本伝統工芸展で青織部鉢が日本工芸会奨励賞に。64年に工芸会を脱会する前後までに、伝統技法を駆使した志野や織部、黄瀬戸、瀬戸黒など、轆轤(ろくろ)の切れ味を感じさせるシャープな食器類を、数多く作ったようです。耳庵松永安左ヱ門(1875-1971)の箱書きのある絵志野茶碗 銘岩清水(1957年作、径12.6cm)は、この時期の代表作でしょう。59年、ベルギー・ブリュッセルの万博に出品した織部釉の花瓶で、グランプリ。順風満帆に見えた戦後の暮らしが、ここから一気に暗転します。

60年春、40歳で肺結核を発症。同じころ紀年銘のある最古の古瀬戸として、小山が強く推し、前年、重要文化財に指定された永仁銘瓶子が、鎌倉時代でなく現代の作ではないかとの疑いが生じました。岡部は毎日新聞の取材に、出征前の38年、古瀬戸の習作として作ったが、銘は彫っていないと答え、これが8月24日に報じられて大騒ぎとなります。父親である加藤唐九郎(1897-1985)はマスコミの追及を逃れてパリに滞在していましたが、10月23日に朝日新聞の取材に応じ、37年に自分が作り、銘も彫ったと証言。息子は窯焚きを手伝ったが、瓶子自体は作ってはいないと、岡部の発言を否定します。唐九郎の証言には虚実を判断し難い部分が多い一方、岡部は正義感から発言したと思われますので、後者がより真実に近いと考えるべきでしょう。その後、文化財保護委員会による蛍光X線分析で、永仁銘瓶子など3点の釉薬が古瀬戸と異なる成分と確認され、翌61年に重文指定解除。小山も責任を取って文化財保護委員会事務局を辞します。唐九郎の作家としての名声は、事件を機にかえって高まりますが、岡部は深く傷付き、親子の亀裂は決定的となるのです。

岡部の名を不朽にした青瓷が作られるのは、60年代半ばから。展覧会を企画した唐澤昌宏・主任研究員によると、62年暮れの試験作に青い釉調が現れたのが契機だったそうです。65年には貫入(かんにゅう)のない粉青瓷などの焼成に成功。69年作、粉青瓷砧(高29.5cm)のふっくらした造形と青の釉色は、本家の中国にもない、豊かな美しさと言えるでしょう。この年秋、岡部は小山に伴われて台湾を訪問。台北故宮博物院所蔵の南宋官窯や汝窯などの青瓷の名品を、自然光の下で手にする機会を得ます。74年に作られた粉青瓷瓶(高23.5cm)の、やや白みを帯びた釉調は、そのとき見た汝窯を意識した結果とされています。青瓷の青は、釉薬中の鉄分の還元による呈色ですが、焼成中に窯が酸化状態になると、黄味を帯びます。二重貫入が美しい窯変米色瓷砧(1971年、高24cm)は、こうして誕生した作。唐澤さんによると、複雑な二重貫入は67年、米色は70年ごろまでに完成したのだそうです。

美しさと存在感を兼ね備えた岡部の多彩な青瓷は、あとに続く作家たちに、強いインパクトを与えたようです。佐賀県武雄市在住の青磁作家中島宏(1941-)はかつて、「仰ぎ見る高峰のように感じた」と語ったことがありますし、鉄釉陶器の人間国宝で7歳年少の清水卯一も強く意識していたらしく、「岡部さんの話をすると、決まって先生の機嫌が悪くなった」と弟子の一人から聞かされました。

そんな岡部を78年夏、脳出血が襲います。助かったものの、58歳で半身が不随に。卓越した造形感覚を武器に、新機軸を打ち出してきたこの作家にとって、文字通り手足をもがれたに等しい試練だったに違いありません。辰子夫人らの介護で徐々に回復。轆轤が引けないため、4年後の82年からは、板状に切った土と型を併用する試みを始めていたようです。窯変嶺燦●(わん、怨の心の代わりに皿、径13.4cm)は、亡くなる前年、89年の再起新作展への出品作。雑誌『炎芸術』47号(1996年刊)に再録された辰子夫人の手記によると、燿変天目の再現を目標に努力を重ねたがうまく行かず、釉を掛けたまま放置してあった旧作を87年4月の窯に入れてみて、ようやく満足できるこの一●(わん、怨の心の代わりに皿)を得たそうです。

辰子夫人の手記には、数多くの自作が古瀬戸として流通しているのを知った岡部が、自ら改造した穴窯の焚き口を出征の前年に壊して使えないようにした、との記述もあります。興味深いことに、これには唐九郎の名が一度も登場しません。「彼の技術を悪事に利用され」「あの事件は、後に壷の作者争いのように演出されたが、その演出者が実は黒幕で、まだ外に嶺男の関知せぬ事で犯罪を構成する事があったと後で知った」などの表現は、当然、唐九郎を指すのでしょう。それだけに一層、家族の受けた傷の深さが想像されます。

展覧会にはカタログが欠かせませんし、しかるべき年譜も必要です。遺族が唐九郎との関わりに触れるのを拒み通せば、回顧展の開催は不可能だったでしょう。今回展示されたのは書も含め、初期から晩年までの代表作176件。この優れた作家の全貌が、初めて明らかになりました。厚い壁に挑んだ、唐澤さんらの努力を多としたいと思います。

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