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朝日新聞社文化事業部企画委員として長年、陶芸など内外の美術展の企画運営を担当していた小野公久氏が、陶芸に関する基礎知識やおすすめの展示会情報などをわかりやすく紹介します。 美の求道者・安宅英一の眼 安宅コレクション― 展覧会から ― 2007年09月02日 9月30日(日)まで、大阪市立東洋陶磁美術館で開催中。問い合わせは06−6223−0055、ホームページ:http:/www.moco.or.jp
10/13−12/16 東京・日本橋の三井記念美術館、08.1/5−2/17 福岡市美術館、2/29−3/20 金沢21世紀美術館でも
総合商社安宅(あたか)産業が作り上げた798件の韓国陶磁、144件の中国陶磁計約1000点のコレクションは、1977年の伊藤忠商事による吸収合併で同社が倒産、消滅したのちも住友グループ21社の配慮で散逸を免れ、大阪市立東洋陶磁美術館に一括収蔵されています。韓国陶磁は本国を含めて考えても、世界最高レベル。中国陶磁も飛び切りの名品揃いです。企業の蔵品でありながら、優れた個人の収集品に稀に見られるような、品格と高い美意識で統一されているのはなぜでしょうか。数多(あまた)のコレクションの中で、傑出している理由は何か。謎を解く鍵は、収集を主導し続けた創業二代目で、取締役会長、相談役社賓を務めた安宅英一氏(1901−94)の卓越した審美眼と個性でした。コレクションが始まった1951年から終焉を迎える1976年までを4期に分け、国宝2点、重要文化財12点を含む期ごとの代表的収集品約200点と、それにまつわるエピソードを軸に、この稀有な人物の眼の軌跡をたどる試みです。 安宅産業社員として、長年収集時に行動を共にした大阪市立東洋陶磁美術館の伊藤郁太郎館長(1931―)によると、安宅氏は1982年に美術館が開館して程なく来訪。車椅子で展示室を巡りつつ、こう語り掛けたそうです。 「ここに梅沢さんの鉢があれば完璧ですね」「細川さんの三彩獅子が加われば、(展示が)引き締まりますね」 梅沢は東京・神田の梅沢記念館。所蔵品の重要文化財白磁刻花蓮唐草文鉢は、11世紀の北宋・定窯を代表する名品です。獅子は、細川家伝来の宝物などを保存管理する東京・目白、永青文庫所蔵の唐三彩。日本にある類品の中では、ともにトップレベルの品々です。国公立の美術館に納まった美術品が再び市場に出る機会は、まずないでしょう。しかし私立美術館の場合には、可能性は皆無とは言えません。その意味で、安宅氏の感想は、冗談でも、単なる思い付きでもなかったはずです。この一言に、収集に賭けた氏の執念と構想力を垣間見る思いがしたのですが、いかがでしょうか。 企業としての美術品収集の大義名分は、利益の社会還元と従業員の教養向上でした。これを役員会で認めさせたのが安宅氏です。十大商社の一つとは言っても、収集開始当時の年間売上は50億円足らず。月間購入限度額も設けられ、超過は認められません。1955年に東京・京橋の繭山龍泉堂から買い取った高麗時代、12世紀前半の重要美術品青磁彫刻童女形水滴(高11.4cm)は、最も人気のある品の一つですが、数回に分けて支払ったそうです。 朝鮮時代を代表する名品として名高い16世紀の粉青粉引祭器(高13.6cm)も、1954年に5回の分割払いで、コレクターから直接購入しました。安宅氏は程なくこの人物の子息を安宅産業に迎え、手厚く処遇。甲斐あってか、父親所蔵のもう一つの名品、透かし彫りのある朝鮮時代の白磁盆台も4年後に氏の手に落ちたそうです。 11世紀、北宋・定窯の重要文化財白磁刻花蓮花文洗(高12.1cm)は、日本橋・壺中居主人広田不孤斎(1897―1973)秘蔵の三種の神器の一つ。虚を衝く機略で1954年に譲り受けた経緯は、このコラムの第一回「美術商の百年」展(昨年2月9日掲載開始)に書きましたので、繰り返しません。梅沢の鉢と並べて見たかったのでしょう。 14世紀、元・景徳鎮窯の青花牡丹唐草文梅瓶(高38.1cm)は、竹内栖鳳の息子が手に入れ、大阪の平野古陶軒を通じて1965年にコレクションに加わりました。最初に扱った京都の骨董商によると、終戦直前に満州からの引揚者が日本に持ち帰り、戦後、3万5千円で売った品。この人は、代金で湘南に立派な家を建てたそうです。骨董商から栖鳳の息子への売価はその倍額。コレクションに収まったあと、安宅氏がこの店を訪ねた時、「あなたから直接買えば安かったろうが、こちらも会社なので領収書が要る。ご迷惑を掛ける結果になったかも知れず、これで良かったのでしょう」と、店主の優れた目筋を称えたそうです。 コレクションの成熟期に当たる1966−75年に安宅産業は急成長します。51年に6000万円だった資本金は69年に100億円に。75年には年商2兆円を突破。購入限度額もかなり自由になり、収集もピークを迎えます。12−13世紀、南宋・建窯の国宝油滴天目茶碗(径12.2cm)は、この時期にコレクションに加わりました。関白豊臣秀次が所持したこの茶碗は、西本願寺、三井家に受け継がれ、最後に若狭・酒井家に伝来。安宅氏は68年初夏に東京・パレスホテルの特別室で酒井家当主と面談。言葉少ない、礼を尽くしたやり取りの末に、購入が決まったそうです。 安宅氏は、手に入れたい名品の写真を寝室の壁に飾り付け、日夜眺めて、どう手に入れるかを考えたそうですが、候補作品は、主に展覧会図録や美術全集から選んでいたようです。目標が定まると、古美術商らの人脈を駆使して周到に調査した上で、無限とも見える忍耐力で機が熟すのを待つのが常でした。かつて仏文化相アンドレ・マルローが思い描いた空想美術館は文字通り実現不可能な夢の記述でしたが、氏は、理想は抱きつつも、事業家らしく現実的に対応しました。伊藤館長によると、美へのセンスは天性と言うほかなく、日々精進潔斎するかのように物に立ち向かっていたそうです。美術商からの持ち込みを座して待つようなコレクターとは、縁遠い人物だったと考えるべきでしょう。 この記事の関連情報 |