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< 第1回朝日杯将棋オープン戦 観戦記第7局 >
先手 ▲ 加藤一二三 九段   対   後手 △ 戸辺誠 四段

偉大なる1000敗の譜

対局日:2007年08月22日

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 現役生活54年目の元名人、加藤一二三・九段が偉大なる1000敗を喫した記念の譜を、インターネット限定で紹介する。持ち時間各40分。対局中の加藤の所作を余すところなくお届けすることに主眼をおきたい。

 午前9時50分、足早に入室した加藤のネクタイは、いつも通り正座をすると畳につきそうなぐらい長い。2分後に戸辺誠四段(21)が着座すると、加藤はすぐさま駒箱に手を出し、猛スピードで並べていく。並べ終わった時、戸辺はまだ左香を置いたばかり。ほおをふくらまし、まぶたをひくひくさせて盤上をにらむ。早くも加藤流全開である。戸辺にとって加藤はあこがれの存在。「記録がかかっていることは知っていたが、すごい先生と指せるだけでうれしい」

 ▲2六歩〜▲2五歩とゴキゲン中飛車を封じる出だしだが、それでも角交換から向かい飛車に構えられ、ゴキゲン中飛車でよくある展開に進む。△3五歩の仕掛けに熟考するうちに加藤の消費時間は早くも30分に。対して戸辺は3分程度だ。△3五同銀に対する考慮中に立てひざになり、ズボンをたくし上げるポーズがこの日初めて出た。△5五角にも再度の立てひざ。角の打ち合いから手順に矢倉に組む▲7八金(35手目)と指した第1図で、小走りで手洗いに立つ。加藤のテンションがどんどん高まっていく。

■「バチン」と妙手

 戸辺が銀冠、加藤が矢倉囲いを完成させ、戦機が熟してきた。△1四歩に対する考慮中に、加藤の持ち時間が切れ、1手1分未満の秒読みに突入した。桂を跳ね合い、立てひざになって打ち付けた▲3八飛はバチンとものすごい駒音が響いた。そのままベルトに手をあて、大きく目を見開いて盤上をにらむ。「1分将棋なのね」と記録係に確認する。

 ▲3八飛は好手で、次に桂頭を狙う▲3五歩の突き出しをみている。最初戸辺は△2四歩のつもりだったが、▲3五歩△2九角▲4八飛△2五歩に▲3八銀の角取りがぴったり。そこで△5二飛と回ったが、△3四歩と打って千日手含みで指す方が勝ったと戸辺。後日の研究では、△5二飛に対し▲3五歩△5五歩▲6一角△5三飛▲3四歩△5六歩に▲6八銀と歩成りを防いで、先手が好調だったようだ。2筋を突き捨てた第2図(52手目△2四同歩)が問題の局面だった。

■勇気を持って

 第2図での▲4五歩が加藤が最も悔やんだ一手。▲6一角と「勇気をもって、踏み込んだ手を指すべきでした」。「勇気をもって」は加藤がよく使う、信念がよく表れた言葉だ。△5三飛なら▲4五歩△同桂▲同桂△同銀▲5七桂。△4二飛なら▲3五歩△同銀▲4五桂とさばく要領だ。本譜は馬を作ったものの、△2一飛と馬取りに回られた第3図(60手目)に進んでみると対処が難しい。

 加藤の集中力が極限まで高まってきたのがこの場面だ。

■ゆがむ顔

 第3図で馬取りを防ぐだけの▲2三歩はつらい手。この辺りから加藤の表情が、大きくゆがんできた。顔中が真っ赤で、激痛に耐えているかのようだ。△2六歩のたらしから、△6九角が厳しい反撃。玉側の金をはがして、△2七金からじわじわ攻める手が厳しい。

 △3七金に対する加藤の顔は痛々しくてみていられない。「んー」「うーん」「ん、ん、あー」。△2七歩成に対する表情の苦しさは、ざんげをしているかのようだ。

 ▲1五歩は遅いようだが、1歩を手にすれば手段が広がる。▲1四歩と取り込んでから、加藤のモードが一変するのだ。

■突然の独り言

 第4図(76手目)の△4五桂に突如として、加藤の口がなめらかになった。苦悶(くもん)の表情はどこへやら。立てひざのまま「んー、えーと、うーん」「難しいな。んーんーという将棋だね」

 記録係「30秒」。

 「なかなか難しいぞこれは」「なかなかの将棋だね」「んーん」

 独り言が止まらない。△4五桂にかえて△4八とは、▲4六馬△5八と▲同金で難解。△2三飛には1筋で手にした1歩で▲2四歩と打てるのが大きい。突如のモード変化は、形勢好転を感じたからかもしれない。

 ▲4六金に△4四歩と桂取りを受けた手に対し、また独り言が始まる。

 「えーと、えーとね。これはなかなかの将棋だね。えーと、えーと、という将棋だね。えーと、んー、という将棋だね」

 56秒で▲4九歩。優勢気味だった戸辺も秒読みに突入した。

 △5七桂成に対し、「んーと、んー、んー」。突然甲高いソプラノの声で「ふーん」。アルトで「うん、うーん」。△2六歩と垂らされて「えーと、えーと、んーとね、うーんと、うーん…… あたたたという将棋だね」と言って、▲5五歩。4二の金をにらむ2四の馬が働いてきた。手応えを感じたのか独り言がぴたりと止まる。

 ▲5四歩の取り込みも厳しいが、ここで戸辺が切り札として用意していた妙手が出た。馬にあてる△3二桂(第5図・90手目)。

 突如、加藤が叫ぶ。

 「なに、なんなのこれ。んーと、えーと、んー」

 「げげっ、なんだこれは、ふー。どういうことだ、これは」

 57秒で指した次の手が敗着になった。

■極限の集中力

 第5図で秒に追われて▲3四馬と逃げたのがまずかった。ここは▲5三歩成と攻め合う一手で、△2四桂▲5五飛△6四角といった手順で、1手違いの熱戦が続いたはずだ。馬を逃げてしまったため、△5四銀〜△4三金の活用が絶品の味だ。

 △4三金に対する加藤の独り言が、本局最後となった。

 「んー、んーと、えーと、んーという将棋だね。どーしたもんかな、これはどーしたもんだ。どーいうことになるかな、どーいうことになるかな。大変難しい将棋になった」

 「よいしょ」と▲1六馬。戸辺勝勢だ。

 時折、苦悶(くもん)の表情を浮かべるものの、先ほどまでの極限まで高まった集中力とは、明らかに様相が違う。戸辺の確実な寄せに、正午ちょうど、加藤が「負けましたですね」と投了を告げた。終了図は攻防ともに見込みがない。

 1000敗の大記録に、報道各社の記者が続々と入室。感想戦後、異例の敗者共同インタビューが始まった。これまで繰り返し報道されてきたので内容の重複は避けるが、対局中とは人が変わったようににこやかな加藤を見ているうちに、人間が極限まで集中した姿を間近に見ることができたことに感謝したい気持ちになった。

(丸山玄則)
(2007年12月29日 更新)

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