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< 第1回朝日杯将棋オープン戦 観戦記第10局 >
本戦1回戦 先手 ▲ 阿久津主税 六段   対  後手 △ 久保利明 八段

前挑戦者の阿久津、好発進

対局日:2007年12月17日

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■予期せぬ事態

 午後3時からの対局。筆者はいつもよりのんびり、いつも以上にぼんやりと関西将棋会館に向かった。ほとんどの対局が午前10時に始まる将棋界では、この朝日杯将棋オープン戦はちょっとした非日常の世界が味わえる。本戦トーナメントも始まった。特に今日は久保―阿久津戦。ふたりのことを、「かっこいい」「ファンなんです」と若手女流棋士や育成会員がうわさしている姿を見たこともある。元々ミーハーな将棋ファンである筆者もその輪に入っていた。阿久津は終了した朝日オープン選手権の最後の挑戦者で、五番勝負の立派な和服姿で新たなファンを増やしたことだろう。久保も今年度二つのタイトル戦に登場。対局に没頭すると切れ長の目がさらに鋭くなり、まっすぐに盤上に向かう姿がりりしい。これは楽しみ。歩きながらほおの筋肉が緩むのを感じた。

 そんな待ち遠しい対局だったが、予期せぬ事態が起こった。関東所属の阿久津が現れないのだ。阿久津によると、当日朝に新幹線で大阪に移動する予定だったが、見事に寝坊してしまったというのだ。それでも対局開始時刻は変わらない。午後3時、久保が待つ対局室で、そっとチェスクロックのボタンが押された。

■13分の遅刻

 「午後3時前に新大阪に着くようですから、不戦敗にはならないと思いますけどね」。そう関係者に聞いてはいたが、1分1秒が長い。こんなとき、必ずと言っていいほど巌流島の宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘を思い浮かべる。歴史書をひもといたわけではない。小説を読んだわけでもない。うわさで聞いただけのようなものだが、空想が広がる。久保は小次郎となってしまうのか…? 胸騒ぎがする。いやいや、ここで動じないのがA級棋士たるゆえんだろう。久保はイラつくそぶりも見せず、持参していた書類に目を通していた。

 やがてエレベーターが開く音がする。小走り。靴を脱ぐ音。そして現れた阿久津。「すみませんでした」とわびて席に着く。久保は大きな反応を見せず、淡々と対局準備に入った。阿久津の遅刻は13分。他の棋戦では遅刻時間の3倍が持ち時間から引かれるのだが、朝日杯の対局規定では遅刻時間をそのまま引くことになっている。

■シンプルな攻め

 振り駒の結果、と金が4枚出て阿久津の先手と決まった。第1図(10手目・△9五歩)、早くも久保が端歩を突き越す駆け引きに出た。あくまでも淡々と。急いで来たと見える阿久津は汗をぬぐいながらだが、指す手つきはしっかりと力強い。そして△9五歩を緩手と見て素早く動く。13手目の▲3六歩では、▲5六歩ならよくある居飛車対振り飛車の対抗形になっていただろう。本譜の阿久津は必要最低限の駒だけを動かし、実にシンプルに攻めていく。

 19手目▲3五歩で早くも開戦。第2図(20手目・△7二銀)の△7二銀では△7二玉も考えられるが、その瞬間に5三に利く駒がなくなることを嫌って玉を寄らなかった。ただし、玉の安定感に欠ける。このあたり、阿久津はうまく立ち回っている。そういえば、阿久津の額に光っていた汗もなくなっている。

 この日、関西将棋会館では他に対局が行われていない。おまけに本局はインターネット中継の都合で最も狭い「芙蓉(ふよう)の間」で指されている。世間から身を隠すように指されている本局がインターネットを通じて全世界に配信されるのも不思議な話だ。

 阿久津の攻めは対振り飛車急戦のお手本とも言える手順だ。第2図から▲3八飛△2二角と角を引かせたところに▲1五銀と一転して2筋を狙い、仕方ない△3三角には▲2四歩△同歩▲3四歩で3筋の取り込みを実現。△4二角と引かせて▲2六銀(第3図・29手目)と引けば次の▲3五銀が受からない。久保はやむを得ず△3四銀から飛車交換に応じたが、先手香得の戦果を挙げた。プロの棋力には程遠い筆者が見ていると手品のような手順。あっという間の出来事だった。

■勝負あり

 第4図(39手目・▲3四歩)。結論を書くと既に後手が困っている。△同銀は▲4四飛の両取りがある。本譜は▲3四歩に△4五桂と逃げたが、▲4六香△5七桂成▲4三香成とぼろっと銀を取られては勝負あった。△5七桂成で△5七桂不成と金取りを見せるのも▲5九金△4四歩に▲3三歩成がある。また▲4六香に△4九飛▲3九飛△同飛成▲同金としてから△5七桂不成と指すのも、▲5九金△4五歩▲同香△4四歩▲3三歩成と進んで後手が不満。△3六飛からと金を払っても、▲8二角と打ち込むすきがある。こんなところで第2図の△7二銀がたたっている。

 第5図(54手目・△8二玉)、遅ればせながら後手玉が美濃囲いに収まる。このとき、対局室の熱気がスーッと冷めていくような錯覚を覚えた。対局室から緊張感がなくなっている。筆者は先手が優勢ということすら疑問を抱きながら観戦していたが、このときになってようやく、形勢が決定的に開いていると気づいた。盤上をよく見れば先手は銀桂香得で、得した香が4三にどっしり居座っている。そうか、久保はもう切られているのか…。また巌流島が脳裏に浮かんだ。巌流島という場所に行ったことはないが、今日のこの対局室のように孤独で静かな場所なのだろうか。

 ▲4五銀打(終了図・75手目)で先手陣は鉄壁。後手はこのまま指し続けてもすべての駒を取られてしまうだけだろう。午後4時35分、久保がひっそりと投了した。視線は盤上のまま、聞き取れない声で何かをつぶやいただけ。頭を下げたとは言えない、ふてぶてしささえ感じるその態度に、本局の久保の出来があまりにも悪かったことが表れている。

 感想戦は第4図のあたりを10分ほど検討して終わった。「そうか、ちょっとまずかったなぁ……」。久保が取った駒を駒台に放り投げるような手つきで置き、苦笑いを浮かべた。阿久津完勝。序盤に見せた一瞬の切れ味で、久保を破った。

(諏訪景子)
(2008年01月23日 更新)

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