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<  第3回朝日杯オープン戦第7局  >
1次予選1回戦 ▲伊藤博文六段―△里見香奈倉敷藤花

ベテラン伊藤が貫禄勝ち

対局日:2009年7月16日

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■駒の支配権

 40枚の駒がきれいに並べられ、中央には余ってしまって行き場を失った2枚の「歩兵」の駒が転がっていた。

 その盤上にぬっと手が伸びる。手の主は伊藤博文六段。自分側の左から4番目の歩を少し前に押し出し、転がっている2枚のうちの1枚を空いた場所に丁寧に置いた。押し出された歩と、転がったままの歩、この2枚の駒は伊藤の手によって駒袋に片づけられた。時間にすれば5秒足らずの出来事。対戦相手の里見香奈・倉敷藤花は黙って見つめていた。

 余った歩を既に並べている歩と交換するのは珍しいことではない。筆者がこの日だけ「あっ」と思ったのには理由がある。偶然にも前日読んだ観戦記集(「井口昭夫将棋観戦記選集」双峰社刊)に似た話が書かれていたのだ。名人戦七番勝負の舞台で、挑戦者である中原誠・十六世名人が自分のペースを取り戻した証しとして、盤上の歩をさっと取り換え「駒の“支配権”」を握ったエピソードが書かれていた。

 隣との色の調和がよくなかった、かすかに汚れが付いていた…。伊藤が歩を取り換えたことに大した理由はなかったのかもしれない。しかし筆者には、伊藤が落ち着いた気持ちで対局に臨んでいることを示す、象徴的な出来事に映った。

 振り駒の結果、伊藤の先手になり、里見得意の中飛車を受けて立った。急戦を仕掛けるのかと思って局面を見つめていたが、伊藤は第1図のように角道を止めじっくりと構えた。

■里見に疑問手

 里見は多くのメディアで取り上げられたように、昨年11月に初タイトル「倉敷藤花」を獲得。今年1月には女流棋士枠で出場した新人王戦で公式戦初勝利をあげた。「女流棋士の史上最年少公式戦勝利」という記録に加え、破った相手が期待の大型新人・稲葉陽四段だったことも大きな話題を呼び、そして里見の評価はぐんと上がった。

 女流棋士の公式戦出場枠はタイトルホルダーに与えられることが多いため、今年になってから里見が公式戦に参加する機会が増えているのだが、稲葉四段に勝ったあとは3連敗。本局のわずか5日前にも王座戦で遠山雄亮四段に敗れている。これからが真価が問われていく時期だ。

 第2図。里見はここで△4七銀と放り込んだ。△3六銀成と△5六歩の狙いがあり、先手は急に忙しくなった。伊藤も局後に「自信がなくなった」と振り返っている。じっとしていられない先手は▲2四歩△同角▲3五歩(第3図)と紛れを求めていく。そして次の△3三桂。盤側で観戦していた筆者は「なるほど、プロはこうやって遊び駒を働かせていくのか」と感心していたのだが、実は疑問手。単に△3五同歩と取るのがまさった。次に△3六歩と伸ばせば、先手は収拾困難だった。後手ペースだった将棋がたった一つの疑問手で難しくなるとは、本当に怖い。

■伊藤、好調な攻め

 制服姿で対局する里見は高校3年生。地元・島根県出雲市の県立大社高校に通っている。全国高校野球選手権大会の島根県予選では大社高校は残念ながら決勝戦で敗れたが、里見は8月に入って、朝日新聞の企画で甲子園球場に観戦に行き、その様子が紙面で紹介された。

 伊藤は昨年の1回戦も女流棋士(矢内理絵子女王)との対戦だった。直前に会うと「僕が負けたほうが盛り上がるでしょう」と冗談めかしていたが、対局は難しいところもあったが勝っている。今年も伊藤の同じセリフが聞かれたそうだ。男性棋士にとって女流棋士との対戦は、いつもと違う注目をされて指しにくいこともあるが、伊藤には昨年の経験がある。

 実戦は伊藤のペース。第4図の△5二金寄に▲3一角成と馬を作って好調だ。△5二金寄では△5三金と上がっておけば馬は作られなかったが、飛・金が不自由になるのを嫌った。

■勝負手を逃す

 先手が指しやすいとは言え、里見も実戦的な手順で迫る。里見はすでに1分将棋。第5図で伊藤も1分将棋になった。親子ほど離れた年齢のふたりが、顔を真っ赤にして盤に向かい合っている。あとで聞いた話だが、伊藤の子供と里見は同世代で、里見の父親と伊藤は同世代。本当に親子であってもおかしくない。

 第5図から第6図に至るまで、里見はぎりぎりのところで踏みとどまっていた。しかし第6図で里見が間違えた。本譜は△3九成桂と飛車を取ったが、△2九歩成がまさった。△2九歩成に(1)▲1五歩なら△3九とと「と金」で飛車を取る。これは成桂の位置を比べても本譜よりずっと得。(2)▲2九同飛なら△3七角成▲4一馬△2八歩▲5二馬△同金▲2二飛△2九歩成と攻め合いになるが、これは感想戦では後手が指せるという結論になった。

■里見、初戦敗退

 先手ペースだったはずだが、△2九歩成なら後手が十分の形勢。振り返ってみれば第5図で▲4五銀と打ったのがどうだったか。この銀は本譜でもずっと遊び駒になっていた。

 第6図で△2九歩成を逃して以降は、手数は長いものの後手は駒損が大きく、どんどん差が開いてしまった。終了図は鮮やかな歩頭への銀捨て。△7四同歩は▲8二金△8四玉▲8三金打△同銀▲同金△同玉▲8二竜まで、△7四同玉は▲6五馬△8四玉▲8三金△同銀▲7五馬までで、いずれも後手玉は即詰みになっている。

 里見が投了すると、伊藤はすぐに「こっちが悪かったよね」。いつものユーモアあふれる口調でどんどん感想戦を進めていった。10分ほど急所を調べると筆者のほうを向いて「では、このへんでよろしいでしょうか」。最初から最後までマイペースを保ち続けた伊藤の貫禄(かんろく)勝ちだった。

(諏訪景子)

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