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<  第3回朝日杯オープン戦第36局(上)  >
決勝 ▲久保利明棋王―△羽生善治名人

充実の2人の名勝負(上)

対局日:2010年2月13日

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 「久保の現在の強さは、羽生によって作られた」とする説がある。

 本局を迎えた時点で、両者の対戦成績は羽生が29勝11敗と圧倒的にリード。過去の4度のタイトル戦も、久保はストレート負けか1勝を返すのがやっとというありさまで、さんざん痛い目にあってきた。にもかかわらず不思議なことに、この2人の将棋は初期のころからきわどい好局が目白押しなのだ。中終盤のねじり合いをへて、最終盤はいつも攻防の秘手が飛び交うようなスリリングな展開になる。最後に僅差(きんさ)で勝ってしまう羽生が強いのだといってしまえばそれまでなのだが、羽生のほうも相手が久保だとなんだか雰囲気が違う。

 誤解を恐れずに書けば、羽生は久保との対戦では、より強くなるのだ。心技体を極限にまで高め、一点の曇りもない真っ向勝負で押しつぶそうとしているようなフシがある。久保将棋は軽いさばきと粘り強さが二つの柱で、それぞれが超一級品。軽快なさばきを封じつつ、強靱(きょうじん)な粘りを振り切るには、羽生も自己の限界に近いスピードボールを駆使するよりないと覚悟を決めているのではないか。

 羽生のスキのない指し回しの前にこっぴどく負かされてきた久保であるが、球速150キロ台の投げ合いでしのぎを削るうちに力をつけてきた。羽生に負けじとフルパワー充電を繰り返すうち、ふだんの対局では時にボールが止まって見えるほど、久保はここ数年で飛躍的に強くなったというのが「羽生恩恵説」の主張だ。

 王将戦七番勝負を争いながら、両者はこの朝日杯でも決勝の大舞台で相まみえることとなった。現在の2人の充実ぶりには目をみはるものがある。41度目のこの対決も終わってみれば期待通りの大熱戦で、第3回の本棋戦のフィナーレを意義深いものにした。持ち時間の短い将棋でここまで完成度の高い内容は、めったに望むことはできない。現代将棋を代表する一局であると思う。

 この観戦記は(上)(下)それぞれ独立した2本立ての形式とする。(上)は大盤解説場(解説・木村一基八段、聞き手・本田小百合女流二段)の様子を交えながら、本局の進行を時系列的に追ったメモ書き風。(下)は両対局者の感想戦のやりとりを解説書風に再構成し、(上)を補完する内容を目指したい。この決勝戦は、棋譜再生の中継コメントが特に丁寧で行き届いている。まずはその中継コメントにじっくりと目を通し、それから(上)(下)の拙稿を読み進めていただきたい。この激闘譜を違った味わいで3度楽しんでもらうことができれば、至上の喜びに感じる。(文・小暮克洋)

■相穴熊の探り合い

 本局は▲7六歩△3四歩▲1六歩の出だしで相穴熊になった。先後入れ替えた形で、ゴキゲン中飛車を巡る主要テーマの一つになっている最新の戦型だ。

 △3二金(第1図)で固められた後手玉は、まるで野茂英雄投手のトルネード投法を思い起こさせるようなコリコリ状態。上半身の比重が左肩に偏っている。さしずめ8四の飛車は、大きく振り上げた左足のような存在か。ふた昔まえの常識からすればすこぶるバランスが悪いのだが、駒がうまくぶつかれば三振の山が期待できる。対する久保は▲3五歩。△同歩なら▲同銀△3四歩▲2六銀でスムーズな駒の繰り替えが可能になる。先手の狙いはライト方向への流し打ちだ。

 ▲3五歩以下は、△2四角▲2六歩△4五歩▲2五歩△3三角▲3四歩△同金▲3七銀引(第2図)と進んだ。△4五歩のところで谷川浩司九段が大盤解説場に登場。「準決勝で負けた者同士、控室で佐藤和俊さんといっしょにネット中継を見ていたんですが、雰囲気が暗いんですよね。関係者が誰も寄ってこないですし」と身を切るギャグで笑わせる。さらに決勝の相手が羽生と決まったとき、久保が「えっ、またですか」と苦笑したエピソードにも触れ、「羽生さんが言うのならわかるんですがね」――。手負いの十七世名人は怖い。数時間後の酒席でその出来事を伝え聞いた久保は「え? マジですか。それはまずい」と青ざめた。

 続いて登壇した佐藤五段は、つい3週間ほど前、先後入れ替え▲1六歩の1手が入っていない形で▲3五歩と突いた類似局面を経験していた。「その将棋は△2四角▲2六歩に△3一銀右▲2五歩△4二角の進行。▲3五歩の仕掛けは振り飛車が粗かったのではないかと反省したんですが」――。羽生はより積極的に△4五歩を選択。▲3四歩〜▲3七銀引は、佐藤五段の表現を借りれば「明るい撤退」ということになる。後手の金を上ずらせ、その足ですぐに銀の活用が見込めるのが幸便。△1四歩には▲2六銀と上がる手がピッタリだ。

 第2図以下は、△8六歩▲同角。これで後手はいつでも△8六飛と角を取れる形になった。木村八段はこの局面で「△8八歩と打つ展開には絶対にならない」と断言。加えて「2五の歩はエサ。△2五金と出てきてもこの金は玉の守りには役立っていないし、将来▲3六銀とぶつけられる」と説明した。ところが羽生は▲8六同角に、その△2五金を決行。△2五金には別の狙いがあり、それが▲5八金△1四歩▲4八金寄に△1五歩(第3図)だった。佐藤五段の類似局とただ一つ異なる▲1六歩をターゲットに、羽生は先手の玉頭から襲い掛かる卓抜な構想を打ち立てたのだ。羽生の一連の指し手の組み立てに対し、木村八段は「難癖のつけ方が実にうまいですよね」と遠まわしの賛辞を送った。

■ギリギリの応酬

 ▲3八金寄(第4図)で、先手は金銀密集形が完成。堅さ対端歩という図式になった。△2四角が有力に映ったこの場面で、羽生の指し手は△4六歩。▲同歩で飛車の横利きを消してから△8八歩▲7七桂△6四歩が、巧みなコンビネーションだった。敵陣のイヤミをつきながら自陣へのイヤな筋を消し、着実にと金作りを間に合わせる方針。さすがの緩急自在といえる。△6四歩では△8九歩成を急ぎたくなるが、それは▲6五桂と跳ばれてさばかれるという判断だ。が、久保も負けてはいない。▲3五歩△2四飛に▲4五歩で再び飛車の横利きを通し、1筋からの逆襲を試みた。力のこもった優劣不明の中盤戦が延々と続く。

 △4六歩(第5図)では△1六同香が自然だが、羽生はグッとこらえた。木村八段は「ハアー、ひねりますねえ。ひねるんだなあ。どう見ても本線ではないですけどね」――。▲4六同飛なら△5五角▲5六飛に、そこで△1六香。▲同飛△1二香▲同飛成△同玉▲1八香△1三歩となればこれは後手が指せる。第5図以下は▲1五歩△2六飛▲2七金打△1六飛▲同金△3六香と進展。△2六飛はなるほど自由奔放な着想だが、木村八段の見立ては「羽生さんがちょっと無理をしている感じもある。久保さんが正確に指せば先手がよくなる気がします」。△3六香では△1三香打も考えられたが、羽生は直接手で迫った。▲3七桂なら△9九とで香を補充し、それから1筋に二段ロケットを据える手が厳しくなる。

 久保は▲4六飛と歩を払い、△3八香成に▲同金。後手としては、うまく攻めを継続するか力をためるかの正念場。久保のほうはさっぱりした局面なので、しっかりしのぎきれればいい。受けの強い木村八段は、ここでもやや久保乗りの見解で「いやあ、この指し方で後手が勝ったら強い。ま、いまさら羽生さんが強いと言っても始まらないんですが」。すかさず本田女流が「対局者は解説の上をいくということでしょうか」と切り返す。木村八段が「シャクですね」と口をとがらせ天井を仰ぐと、会場は笑いの渦に包まれた。

■羽生が突き放す

 第6図が本局のハイライトシーン。4九の銀が不成で迫った場面だ。△3八銀成を推奨していた木村八段は、「不成だと▲1八玉がイヤなんですがねえ」。ところがそのつぶやきから1秒後、「イヤ、ヤ、ヤ、ヤ。発見しました。▲1八玉には△1九金という手がありますね。この攻めを先手が切らすのは容易ではありません。まあ、久保さんは食らいませんけど」――。しかし、なんとスクリーンに映し出された久保の着手はその▲1八玉。「あれ、食っちゃうんだ。皆さん、△1九金はいい手だと思いませんか?」に場内は大拍手。「だけどそんなことを言っていると、また羽生さんが打たなかったりするんだ。それで本田さんが、『さすが、羽生さんはよく読んでいる』っていうんでしょうから。早く1分が立たないかなあ」。固唾(かたず)をのんで次の指し手を待っていると、スクリーンに現れたのは△1九金。「打った、打った!」で場内また大拍手。「1手当たっただけで、こんなに拍手を浴びるとは(笑)。でも久保さんはきっと軽視したはずですよ。それにしても羽生さんは強いもんですねえ」――。舌がなめらかになった木村八段はさらに続けて「でも▲1八玉以外の手で先手が有利にできたかどうかはわからない。この将棋は、久保さんにはヘタをすると悪手が1手もないのかもしれません。『じゃあオレのいったい何が悪かったんだ?』『いえ、あなたは何も悪くありません』てなことになると、よけいダメージが大きいんですけど(笑)」。

 △1九金以下も熱戦は続いたが、△1三桂打(終了図)でついに先手投了と相成った。終了図までの40手でも双方の指し手が解説者の予想外ということが何度かあり、木村八段は「うん? どうして当たらない……」。すると無邪気で踏み込みのいい本田女流が、明るい声で「指している人のほうが考えているってことなんですから、木村センセイ元気を出してください!」。

 とにもかくにも羽生が激戦を制し、本棋戦初優勝を達成した。「これはでも、見応えがあったなあ。いい将棋でしたね」と、両者の健闘をたたえた木村八段。最後はしみじみ「久保流のいい指し回しも存分に出たと思うんですけど、本当に何が悪かったんですかねえ」と言って、解説を締めくくった。(つづく)

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