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<  第3回朝日杯オープン戦第36局(下)  >
決勝 ▲久保利明棋王―△羽生善治名人

充実の2人の名勝負(下)

対局日:2010年2月13日

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 対局終了後、すぐに両対局者は大盤解説場へと移動。壇上で初手からポイントとなる場面を振り返り、拍手で見送られて別室に移るや、さらに詳しい感想戦が行われた。この(下)では2人の検討の模様を軸に、この熱局を再度振り返る。

■微妙な形勢

 羽生「先後逆でよくある将棋になりましたが、持久戦のほうが後手番をカバーできるのではないかと考えました。右銀に繰り替えられてはいけないので、△4五歩(第7図)の反発はまあ、こう指すところでしょうかね」

 久保「△4五歩には▲同銀△3五角▲2五歩も考えたんですけれど」

 羽生「以下は△6四飛▲6六歩△1四歩ですか。あとでこちらは△5四歩を狙う将棋になりますね。これもあるかと思いました」

 久保「本譜△4五歩▲2五歩には、強く△4六歩はありませんでしたか」

 羽生「▲2四歩△4七歩成に▲5四歩△4四歩▲4一角で自信なかったです」

 久保「本譜は△8六歩(第8図)の突き捨てがいいタイミングでしたね」

 羽生「▲8六同角には、△8八歩が利けばいいなと思ったんですが、▲7七桂△8九歩成▲6五桂△4四角に▲5八金から左金を活用されて、全部の駒を使われてしまう気がしました。それで、もっとゆっくりした指し方にしようかと」

 久保「▲8六同角△2五金には本当は▲7七桂と跳ねたかったんですが、△3四飛▲3六歩に△4六歩と突かれ、▲同飛に△3五歩で攻め込まれてしまいます。こちらも駒が玉側に近づくまでは辛抱しなくてはいけないんですが、端攻めがうるさかったですね。あまり見ない形なんですけれど」

 羽生「△1六歩(第9図)の局面で▲3六銀ではなく▲2七銀なら一瞬、先手陣にスキができるので、そこで△4六歩と突いて何とかなると思っていました」

 久保「▲3六銀△1五金▲2七銀引△3四飛に▲3五歩は、△同飛と取られるのがイヤで打てませんでした。以下▲6八角△3四飛は3九の金がダイレクトなのでこっちもやりづらい。△3四飛には単に▲6八角と引く手も考えましたが、△4四角▲3五歩△同角▲3六飛△2五金はやはり先手が悪いですね。というわけで▲3八金寄ですが、ここではちょっと苦しめなのかと思っていました」

 羽生「こちらは▲3八金寄ではなく▲3七金でも▲3八金上でも、本譜と同じように△4六歩と突いて飛車の横利きをさえぎるつもりでした」

 久保「△4六歩(第10図)が機敏でしたね。▲同飛は△5五角▲7七角△4六角▲同歩△6九飛で、△3七歩のタタキが残るのが痛い。しかし▲4六同歩と取らなくてはいけないようでは、さすがに自信がなくなりました。△8八歩▲7七桂に△6四歩でしびれましたね。8六の角が使えなくなってしまったので」

 羽生「△6四歩▲3五歩に△2四飛と寄った手では△1四飛も考えたんですが、▲4五歩△8九歩成▲1七歩△同歩成▲同銀△1六歩▲同銀直△同金▲同銀△同飛▲同香△同香▲同飛とさばかれて、後手が芳しくありません」

 久保「▲1六香(第11図)のところで▲1六銀として△同金に▲同飛も、△同香▲同香△1三歩▲2七香に△2六銀▲同香△同飛で先手は味が悪いですね」

 羽生「まずまずの分かれかと思っていたんですが、▲1六香△同金▲同銀に△同香と取れないようではむしろこちらがおかしいのかと感じ始めました。でも△1六同香と取ると、▲同飛△1二香▲同飛成△同玉▲1八香△1三歩▲2七香となって、これは後手が不利。本譜の△4六歩はしかたがありませんでした」

 久保「▲2七香以下は△9九と▲3七金打△2七飛成▲同金寄△5五角に▲8五飛でしょうか。本譜△4六歩の局面は、こちらがまずいと思いましたが」

■保たれていた均衡

 羽生「△5四歩(第12図)の局面で▲7一飛ではなく▲3四歩なら、すぐに△4九銀と打って▲3九金に△3八金▲5五飛△3九金▲同銀△5五歩と進める予定でした。そこで▲5四角なら、△3六飛と打つ手があります」

 久保「手順中△5五歩に▲3三香△同桂▲同歩成△同銀右▲3四歩も△3八飛で、やはり先手が後手の攻めを振りほどくのは難しそうですね」

 羽生「△3八銀不成(第13図=再掲第6図)には、▲5五飛と取られるかと思っていました。それなら難しかったような気がするんですが」

 久保「△5五同歩に▲3九香と打つんでしたかね。以下△2七銀成▲同銀△7八飛に▲2八銀△3七歩。そこで▲5四角は△3八金▲同香△同歩成▲同銀△同飛成▲3七金に△同竜▲同桂△3八銀ですか」

 羽生「きわどいですね。後手玉に詰みはないので、以下は▲1八玉に△3六金▲2七歩△2四香という感じで……。これは後手が勝っていそうですか」

 久保「でも△3七歩には▲同桂もあるし、▲3四桂と打っておいて、さっきの手順で△3八同飛成のときに▲2二桂成△同金▲2七銀打もありそうですしね。そうか、難しかったんですね。▲1八玉が敗着ですか。ただ▲1八玉に△1九金と打たれた手では、△2七銀成のほうがイヤでした。▲同銀に△2八金▲1七玉△2七金▲同玉△4七銀という要領で、先手玉には粘りが利きません」

 羽生「そうかあ。なるほど、そのほうが速かったですね」

 久保「でも本譜でも、やはり先手が負けていそう。ちょっとくらいチャンスがこないかな、と思ってはいたんですけどね。▲1八玉以下は、どうやら正しくやっても先手に勝ちはないようです。△1九金▲1七玉△2九金▲5五飛△同歩に▲5四角は、結果的にこの角が取られるだけの駒になってしまいました。が、▲5四角に代えて▲4四桂と打っても△3一金▲3二香に、△2八金▲同金△5七飛で先手玉が寄ってしまいます。この将棋は端を攻められて実戦的には先手がイヤな展開になり、8六の角が残ったんで、この角の分だけ悪いと思って指していました。最後まで足りないような気がしていたんですが、そうか。△3八銀不成に▲5五飛〜▲3九香なら、まだまだ粘れていたんですね」

 羽生「終盤まで、ずっと均衡がとれていた将棋なのかもしれません」

 表彰式で念願のトロフィーを受け取った羽生は、うっすらと疲労を浮かべながらもほっとした表情を見せた。壇上でのあいさつでは開会したばかりのバンクーバー五輪について触れ、「どんな競技も観戦して喜んでくれる人たちがいるからこそ成り立つんだと思います」――。将棋界を超える広い視点を意識した、第一人者らしい謝辞だった。

■超トップの条件

 表彰式終了後、対局場に隣接する一室で立食形式の打ち上げパーティーが開かれた。宴たけなわのころ、酔いにまかせて久保にストレートな言葉を投げかけた。「ホント、久保さんは羽生さんに鍛えてもらってよかったよね」と。

 天下のタイトル保持者に対し、一歩間違えれば許されざるビーンボールだ。とはいえ、久保も私のひねくれた性分はよく知っているはずだから、「このオジサンは相変わらずキツいことを言うんだから」と引きつった笑みをもらすに違いないという確信があった。ところが反応はまるで違ったのだ。それまで数人で談笑していた久保が急に真剣な目つきになったときには、「やばい、いくらなんでも軽率だったか」と、私は深い後悔の念にとらわれた。しかし次の瞬間、久保は私の目をまっすぐに見て、一語一語かみしめるようにこう言ったのだ。

 「うーん、本当に……。うーん、本当に、その通りですよね」――。

 それは決して、羽生に挑戦中の王将戦七番勝負でこの時点2―1とリードしていた、その心の余裕から出たというような希薄な言葉ではなかった。久保は2年ほど前、突如「自分に欠けていたものは鈍感力」と公言するようになった。久保の精神力の強さは師匠の淡路仁茂九段譲りと思われていただけに、周囲はむしろその巧まざる鈍感力に唖然(あぜん)とするよりなかったのだが、それはともかく「本当にその通り」とは……。この老成した達人を思わせるような諦念(ていねん)ぶりはどうだろう。羽生の強さを感謝の思いとともに受け止めようとする、この器の大きさは……。

 久保の平らかな心が放つ透明な率直さに、私は心底驚かされた。

 信ずる者は救われるということか! いや、すでに鈍感力を超えて老人力の域に達してしまったということか! などと、おちゃらけるのはもうやめよう。「勝敗に拘泥せず、一局一局を虚心に楽しみたい」と会うたびに言っていた久保の志は本物だった。間違いなく久保はいま、羽生と同じ地平にいる――。

 久保がたどりついたこの無碍(むげ)の境地こそが、実は羽生に鍛えられたという事実の最大の証しであり成果であり、喜びなのかもしれない……。私はまた何ごともなかったかのように陽気にビールのグラスを傾け始めた久保の屈託のない笑顔をぼんやりと見つめながら、混濁した頭の中で静かに「負けました」と頭を下げた。(おわり・文・小暮克洋)

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