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「アトム」オールスター監督大集合in広島

2008年8月18日

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写真控え室の豪華メンバー。左から手塚治虫の長男・眞さん、高橋良輔さん、富野由悠季さん、松谷孝征・手塚プロダクション社長、りんたろうさん、杉井ギサブローさん、出崎統さん=10日・広島市で、南正時さん撮影写真トークショーより、杉井ギサブローさん写真りんたろうさん写真出崎統さん写真高橋良輔さん写真富野由悠季さん写真壇上に並んだ監督たち。左から富野さん、高橋さん、出崎さん、りんたろうさん、杉井さん

 第12回広島国際アニメーションフェスティバル(8月7〜11日、広島市)に行ってきました。全日程見たかったのですが休みが取れず、8日の勤務を終えてその夜に広島入り。広島はやっぱり今回も熱かった(暑かった)。

 海外の短編アニメを中心とするこの映画祭に初めて行ったのは、90年の第3回。まだ大学生で、鈍行を乗り継いで広島へたどり着き、ゲップが出るほどアニメを見て、同人誌に原稿用紙100枚分くらいの挿絵つき鑑賞記を書きました。以来、支局勤務やら異動直前やらで休みが取れなかった第4回と第9回を除き、2年に1度開かれる「ヒロシマ」に通い続けています。

 日本のテレビアニメが取り上げられることはまれなのですが、今回はすごい企画がありました。虫プロで「鉄腕アトム」第1シリーズ(63〜66年)を手がけた演出家によるトークショーです。10日午後、大ホールの壇上に並んだのは、「タッチ」「銀河鉄道の夜」「あらしのよるに」の杉井ギサブロー監督、「銀河鉄道999」「幻魔大戦」「メトロポリス」のりんたろう監督、「あしたのジョー」「エースをねらえ!」「ガンバの冒険」の出崎統監督、「サイボーグ009」「装甲騎兵ボトムズ」「火の鳥」の高橋良輔監督、「海のトリトン」「機動戦士ガンダム」「伝説巨神イデオン」の富野由悠季監督。こんなメンツがそろうのは奇跡です。

 前置きが長くなりましたが、特別プログラム「手塚治虫回顧上映 アニメーションより愛をこめて/手塚治虫の仕事」の中の1企画、トークショー「オサムとアトムとアニメの日々」をお楽しみ下さい。あえて解説は抜きで(ただし抜粋です)。

     ×     ×     ×

 〈杉井〉手塚先生と初めて会ったのは20代初め。小学生の頃からファンで雲の上の人だったけど、冷静に考えると先生もまだ30代。30代の若者が20代の若者を集めて作ったのが虫プロだった。一番教わったのは、エンターテインメントというのはチャレンジだということ。常にチャレンジしていないと古びてしまう。だから同じことを繰り返してはいけない。

 〈りんたろう〉偉大なマンガ家であり、寝食を忘れて一緒に仕事をしたチーフ。覚えているのは、動画机を並べて仕事をしていた時のこと。地震みたいにガタガタガタガタ揺れ出した。先生は調子に乗ってくると貧乏揺すりをするクセがあった。あとは音楽に造詣が深かったこと。朝からコンテをかきつつベートーベンの第5をかけていた。

 〈出崎〉2人の先輩の話を聞くとうらやましい。僕は手塚治虫にあこがれ、マンガ家を目指して挫折して、偶然虫プロに入ることができた。先生を目の前にしてもこちらからアクションを起こすことなんてできなくて。何か思い出を作っておけばよかったと後悔してる。一度、アトムのコンテを見せた時「出崎君、エンターテインメントを忘れないで」と言われた。僕は暗い話が好きでそんなのばかりやっていたから。それからずっと、エンターテインメントって何だろう、と考えて、今日まで来てしまった。

 〈高橋〉私も手塚先生のファンで、別世界の人と思ってた。虫プロの試験でお会いして「ホンモノだーっ!」って思った。神様みたいな存在だったのが、一緒に働いているとどんどん「ちょっと年上のただのオジサン」になっていった。徹夜して机の下に寝ていると何か圧迫感があって、見たら隣で先生が寝ている。手塚先生と添い寝しちゃった。後になって自分のスタジオを高田馬場に持った時、手塚プロも高田馬場にあったので、たまに坂道なんかで会うと声をかけていただき、ますますオジサン度が強まった。亡くなってからは、今度は偉大さが強まってきた。自分が生きて出会った、いちばん偉大な人、という思いを強くしている。

 〈富野〉虫プロに入ったのはこの中では僕が一番あと。だから4人の印象とだいぶ違う。社長なんだから社長をやってもらわないと困るのに、労働組合を作って団交しようしてもなかなか団交に出てこない困った社長、というのが僕の印象。マンガ家でアニメーターの真似事をしている人が社長であるわけがない。早く演出にならないと給料安くてやってられないと思っていた僕に「演出やらない?」と言ってきた時、ああやはりこの人はマンガ家でありクリエイターであって社長ではなかった、と思った。

(手塚先生は優しかったか厳しかったか、との問いに)

 〈富野〉優しかった。でもそれは、オレの映画観と手塚先生の映画観が違ったから。手塚先生の映画観は甘いんじゃないかと思ってた。

 〈高橋〉先生の仕事場は2階にあって、1階とヒモで原稿の受け渡しをしていた。コンテをヒモで上げて見てもらっていたら、5分くらいして2階からコンテがバサーと落ちてきて、「全部やり直してくださーい」。僕は厳しさから始まった。

 〈出崎〉良さんそうだったんだ。僕のは一部手を入れてくれた。優しいも怖いも人間両面。手塚先生はそのまま、先生だった。

 〈りんたろう〉とにかく「人使い荒いなあ」――これだけ。あるとき呼ばれて「演出やりなさい」と言われた。「ついては、上がっているコンテがあるからこれを直してほしい」。これが「ミドロが沼の巻」という話だった。赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄さんらトキワ荘出身のマンガ家たちに頼んだもので、コンテを読むと話がまったくつながらない。これをまとめるのが最初の仕事で、先生は人使いが荒いなあと思った。

 〈杉井〉手塚先生の「新宝島」に出会ったのは7歳の時。その紙のザラザラした感触も覚えている。手塚先生のマンガはほかのマンガと違って、読むというより映画を見ているという印象だった。勝手な推測だが、先生はホントにマンガが好きだったんだろうか、マンガではなく映画が好きで、映画を書いていたんじゃないかと思う。僕は手塚マンガから映画の作り方を教わった。

 〈高橋〉「アトム」の後、30分のテレビアニメが増え、手塚アニメの人気が一時下がった。すると先生は大人向けの長編を作って大ヒットさせた。業界がまたそういう方向を食いつぶしていると、2時間という枠のアニメを今度はテレビでやった。開拓者、挑戦者だった。その遺志を継いで何とか新しいものを作っていこうと頑張っている。

 〈出崎〉マンガでもアニメでも手塚作品の主人公はいつも悩んでる。そこにひかれたから、僕も「ロボットとは?」「人間とは?」とアトムをいつも悩ませた。それで「エンターテインメントを忘れないで」と言われちゃったけど、反権力で心の中に葛藤を抱えている、そういう主人公にあこがれ、僕もそういう作品を目指している。

 〈りんたろう〉商業主義でアニメがどんどん大きくなり、先生が本来やりたかったアニメとどんどんかけ離れていった。でも先生は悩みながらアニメを手放さなかった。プライベートなフィルムを作ってバランスを取っていたんだと思う。でも、最後までどの作品にも満足しなかったのではないか。

 〈富野〉手塚先生が満足した作品はないと思う。映画は好きに作ってすむものではない。好きだけで作れるとは思わないで下さい。それでも作るなら、手塚先生と同じ手の速さと学識を持ってほしい。僕もその1億分の1くらいになれるように頑張ります。

 〈高橋〉先生から学んだのは「作れ」ということ。いま世の中は大きく変わるきっかけをはらんでいるか求めている、そんな時期だと思う。歴史は失敗できないから、僕は作品の中で先取りして失敗してみせることで、こんなことに危惧している、という思いを訴えたい。

 〈りんたろう〉富野も高橋も「手短に」と言う割に話が長い。エンターテインメントというのは決められた尺に収める!

 〈杉井〉50年近く前、暗黙のうちに教えてもらったのは、エンターテインメントはチャレンジということ。いろんな媒体が生まれ、非常に面白い時代になってきた。ここに集まってくれた若い人も、若くないアニメ作家も、チャレンジをしてほしい。

プロフィール

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小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。08年4月から編集局編集センター員。

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