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パバロッティは倒れなかった

2009年2月16日

  • 筆者 小原篤

写真映画「ラ・ボエーム」のロドルフォ(左、ローランド・ビリャソン)とミミ(アンナ・ネトレプコ)写真東京・新宿のテアトルタイムズスクエアなどで上映中 (C)Unitel and MR Film Pietro Domenigg写真得意の曲を集めたCD「パヴァロッティ スーパー・ヒッツ!」(ポリドール)写真カラヤン指揮、パバロッティとフレーニによるCD「ラ・ボエーム」(ポリドール)

 プッチーニ作曲の名作オペラを、ソプラノのアンナ・ネトレプコ(ミミ)とテノールのローランド・ビリャソン(ロドルフォ)という今をときめく黄金ペアで映像化したというので、映画「ラ・ボエーム」(公開中)を見てきました。

 濃いです。貧しい男女が暗い屋根裏部屋で聖夜にひっそり咲かせる恋の花――という話なのですが、この映画はリリカルでなくドラマチック。顔も毛も濃ゆい男とムチムチ美女が熱い歌唱と共に全身からフェロモンを噴出。舞台そのままのオーバーな演技にグイグイ迫るカメラ。「この2人なら『椿姫』や『トスカ』の方がいいのになあ」と思いつつも、今が盛りの歌い手2人のつやめく歌には、うむを言わせぬ力があります。

 「ボエーム」といえば(この2人には悪いですが)パバロッティとフレーニが極め付きです。第1幕、自己紹介する歌を互いに歌うだけで感動のるつぼのクライマックス。出会っていきなり深い愛で結ばれる展開をみじんも疑わせません。タイムスリップできるものならこの2人の舞台を一度でいいから生で見たいものですが、演奏として完璧なカラヤン指揮のCDもありますし、この2人の舞台を撮影した映像も残っており、夜中にふと1幕だけを再生し、ホロリと独り涙することもあります。

 「誰も寝てはならぬ」の名唱でも知られるパバロッティには、忘れられない思い出があります。涙ホロリ、ではなく爆笑もののエピソード。いつかどこかに書ければと思っていたので、ここで披露しましょう。

 97年5月、米のメトロポリタン歌劇場(メト)の引っ越し公演がありました。3大テノールの2人、パバロッティとドミンゴを擁した豪華な来日公演が、東京をさしおいて名古屋からスタートするというので、名古屋社会部記者だった私はデスクに「社会面のアタマのネタにどうすか?」と売り込みました。何しろ郷土愛のつよーい土地柄なので、何によらず「名古屋発祥」とか「名古屋が一番」というネタは読者に喜ばれるのです。

 デスクのオッケーが出たので、会場である愛知県芸術劇場に取材を申し込み、自慢のホールのお話などをうかがいました。後日、嬉しいことに「ドレス・リハーサル」も見せてもらえることになりました。歌手たちが衣装をつけオケが演奏する本格的なリハで、全幕はやりませんがハイライト集みたいなもの。「世界最高」を誇るメトの舞台を堪能でき、いま思い返してもぜいたくな体験でした。

 その「事件」はプッチーニの「トスカ」のリハで、トスカの恋人マリオ・カバラドッシが政治犯として銃殺される終幕に起こりました。カバラドッシ役のパバロッティが、助手らしき青年の肩につかまり舞台に現れました。「ひざが悪い」と聞いてはいましたが、何だか不安げな足取り。定位置に立って助手がさがり芝居が始まります。筋書きでは、トスカの工作で空砲にすりかえてあるはずが実は実弾で、倒れた恋人に駆け寄りその死に気づいたトスカが嘆き悲しむ、となるはずなのですが、ババーン!と撃たれたパバロッティ、何と倒れない! イタズラっぽい笑みを浮かべ、再び助手の肩につかまりしずしずと退場してしまいました。

 「さあ起きるのよマリオ――おお、死んでいる、死んでいるわ!」。トスカはこれを何と、そこらへんに転がっていた麻袋に手をさしのべ歌っています。ああ、こんなかわいそうなトスカがいるでしょうか。演じていたのはマリア・グレギーナだった気がしますが、眉を八の字にしたその顔は、嘆き悲しむというより笑いをこらえているような……。私はといえば客席で固まってしまいました。我が目を疑うとはこのことです。パバロッティはひざが悪くて、バタンと倒れる芝居が出来ないのでしょう。でも本番はどうするの? チケットを買ってあった「トスカ」をカミさんと見に行った夜は、もうそのことが気になって気になって、固唾をのんでクライマックスを待ちました。

 銃を構える兵士たち。見守るトスカ。ババーン! おぉっ、舞台正面の幅広い階段に身をもたせかけるようにゆっくり倒れました。その手があったか!

 スタッフとキャストは事前にこの「解決法」を知っていたろうし、一般の観客はリハを見てないので、これは私(とカミさん)だけが味わえたスリルいっぱいの「トスカ」、これもまた貴重な体験でした。

 パバロッティはちょうどこの10年後、07年に亡くなりました。その美声は永遠ですが、私にとっては撃たれても倒れなかったカバラドッシとしても、記憶に残っているのです。

プロフィール

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小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。08年4月から編集局編集センター員。

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