2009年12月7日
ホラーの名手・黒沢清監督が家族を正面から描いて昨年話題を呼んだ「トウキョウソナタ」を、遅ればせながら先日DVDで見ました。ザックリいえば「平凡な家族の分裂と再生を描いた映画」――なのですがラストがとても奇妙で、深読みウラ読みを誘ってそこがとても面白いです(ネタバレあり)。
線路沿いの一戸建てに住む4人家族。父親はリストラされたことを隠して職探し。バイトに明け暮れていた長男は突如「米軍に入る」と言いだし、次男はこっそりピアノ教室に通い始め学校の給食費を月謝に回す。香川照之さんがネッチリ演じる父親が出色で、虚勢を張って家では権威をふりかざすけれどつながりもあたたかみもない家庭では空回り。満足できる就職口などなく面接でなぶられプライドはズタズタ、失業中の友人は無理心中…。じわじわと追いつめられる様はリアルなホラーというかホラーなリアルというか、孤独と閉塞感が画面を灰色に塗り込めていきます。
この出口の見えない物語をどう終わらせるのかなーと思って見ていたら、黒沢監督は案の定「暴力」を導入しました。ピアノ教室通いが露見した次男は激高した父親によって階段から突き落とされ(その後に家出)、母親は家に侵入した強盗に連れ回され、父親は車にひき逃げされます。なんだかもうどうなったっていいや、という投げやりな気分に落ちた一夜が明けて家に戻った3人(長男は海外に行ったきり)は黙々とゴハンを食べ、そして次男が受験の実技試験っぽい会場でピアノを弾き父親と母親がその美しい調べに涙を流す、というラストシーンに持っていきます。
暴力、ゴハン、美しい音楽。これらは登場人物たちのこんがらがった葛藤や人間関係に強引にケリをつける便利な常套手段です。言葉やロジックでなく生理的感情に訴えることでポイントを切り替えてしまうのです。対立がピークに達したとき大げんかさせてそのあと一緒にメシを食い穏やかな音楽でも流すとほーら不思議、どうにも解決の糸口が見えなかった問題が何だかどうでもよくなるというか何とかうまくいくんじゃね?みたいな気になるじゃありませんか。
別にこの映画を批判するつもりではなく、作劇として妥当で巧みだと思います(脚本はマックス・マニックス)。甘いけれど、でも中盤までの「落ちていくリアルな恐怖」はしっかり伝わったわけで…。などと思ったらラストのラストにギョッとしました。次男が曲を弾き終えると、父親と母親が立ち上がって親子3人ゆっくり歩いてフレームアウト、イスに座ったまま無言の聴衆(関係者や他の保護者ら)は無表情で3人を見送ります。これを、やや遠くから俯瞰のワンショットで見せ、エンドロールへ。黒地に白字だけの簡素なクレジットのバックに、ガタガタとイスを立つ音が流れ、そして静寂。
この物語をどう終わらせるのか、というメタな視点で見ていた私が、この感情の凍り付いたようなラストカットから受け取ったのは、「このラストは幻っていうか夢みたいなもんだよ、本当は希望なんてないんだよ」というメタなメッセージ。そうなると、この会場の窓が開いていてレースのカーテンがひらひら風になびいている奇妙さ(遮音しなきゃダメでしょ?)も、美しくももの悲しいドビュッシーの「月の光」という曲が選ばれたことも、「すべては幻なのだ」ということで合点がいくのです。さらに妄想をたくましくすれば、一家はみな死んでるのかも知れません。父親は車にはねられ、母親は強盗に殺され、長男は戦死し、次男は階段から落ちて。全員に「死ぬ機会」が割り振られているのは偶然でしょうか? 無論これは、作り手の意図とはまるで違う私の勘違いかも知れませんが、深読みウラ読みも映画の楽しみの一つです。
ここで唐突に「ヤマト」の話になります。メタなメッセージを含むラストということで私の頭に思い浮かぶのが「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」(78年)だからです。ご存じ、ヤマトが彗星帝国の超巨大戦艦に特攻するシーン。ヤマトがゆっくりと光の彼方へ消えていく荘厳なラストは、それまでの戦闘場面のリアリティーからかけはなれた唐突なものでした。「美しい方が感動するから、って言ったってヘンだよなあ」というのが初見以来の感想でしたが、あるとき合点がいきました。つまりあれは極楽浄土への船出、補陀落渡海(ふだらくとかい)なのではないかと。では「浄土」とはどこか?
10月17日の弊紙朝刊文化面「あのときアニメが変わった」という私の記事の中で、アニメ評論家の藤津亮太さんが分析してくれていますが、70年代後半から80年代前半のアニメブームの折「『主義』から『趣味』の時代に移った」のです。そして私が思うに、「さらヤマ」のラストに閃いた清らかな光の向こうには、趣味の世界(虚構の世界、アニメの国)という浄土があったのです。「あっちに私たちの夢の世界がある」。それが、あの奇妙なラストのメタメッセージだとすれば、多くの若者が銀幕を仰ぎ見て涙したことにも十分な理由があるというものです。まあ、作り手にどういう意図があったのか(深い意図などなかったのか)は知りませんが、作品が送り手の思惑を超えてメッセージを放つのは、ままあることです。
思い返すと、特攻する古代君の周りにいたのが、死体(森雪)とメカ(ヤマト)と幻影(乗組員たち)と反物質人間(テレサ)で、普通の生きた人間がいないというのがなんだか不吉な予言めいていますね。そうなると「星になって結婚しよう。これが二人の結婚式だ」という彼の名セリフも、ちょっと違う響きを帯びてきますけど。
おっと妄想が過ぎました。「さらヤマ」ファンの皆さん、怒らないでくださいね。
1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。09年4月から編集局文化グループ記者。