現在位置:
  1. asahi.com
  2. エンタメ
  3. 映画・音楽・芸能
  4. コラム
  5. 小原篤のアニマゲ丼
  6. 記事

「やれるのは、来世かな」

2010年9月6日

  • 筆者 小原篤

写真:2000年8月の広島アニメフェス閉幕パーティーでスピーチする川本喜八郎さん。2回連続入賞ゼロだった日本勢の奮起を促す厳しいものでした=小原写す拡大2000年8月の広島アニメフェス閉幕パーティーでスピーチする川本喜八郎さん。2回連続入賞ゼロだった日本勢の奮起を促す厳しいものでした=小原写す

写真:「鬼」「火宅」「不射之射」などの短編をおさめたDVD「川本喜八郎作品集」(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント)拡大「鬼」「火宅」「不射之射」などの短編をおさめたDVD「川本喜八郎作品集」(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント)

写真:DVD「死者の書」(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント)拡大DVD「死者の書」(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント)

写真:昨年10月「イントゥ・アニメーション5・横浜」で柳原良平さん(左)とトークショー。お会いしたのはこの時が最後でした=小原写す拡大昨年10月「イントゥ・アニメーション5・横浜」で柳原良平さん(左)とトークショー。お会いしたのはこの時が最後でした=小原写す

 おつき合いのあった方をしのぶ原稿というのは、頭が混乱してまとまりがつかないものです。これまで記者として追悼原稿を依頼することもたびたびありましたが、訃報(ふほう)を載せた新聞がまだ配られもしないうちに、故人のゆかりの方に電話をかけて「明日の昼までに原稿をいただけませんか」なんて、よく頼めたものです(いや、これからも頼みますけど)。

 8月23日に85歳で亡くなった人形美術家で人形アニメーション作家の川本喜八郎さんに初めてお会いしたのは、1998年8月の広島国際アニメーションフェスティバルだったと思います。その年の4月に東京の学芸部(当時)に配属され、アニメの取材を始めたばかりのペーペーの記者を、温かくアニメ作家の輪の中へ迎え入れて下さいました。

 以来、お仲間に入れてもらった日本アニメーション協会の会合や、ユーリ・ノルシュテインさんやラウル・セルヴェさんといった世界のアニメ作家を囲むパーティーや、そして広島での夜の宴会や、いろんな場所でお会いしお話ししましたが、一人称は「僕」、私のような若造を「小原さん」と呼び、会話は「ですます」調。私に限らず誰に対しても、柔和な笑顔を絶やさず、けれど落ち着いた風格をまとい静かな威厳が漂っている(まるで「三国志」の英雄や「不射之射」の弓の名人のように)ので、周囲の方々と同じく私も自然に「川本先生」とお呼びしていました。温和な川本さんも作品に対しては厳しくて、いつのことだったか広島のアニメフェスのコンペティションで休憩時間にロビーに出ると、目を三角にして怖い顔をした川本さんが座っていました。「あんまりひどい作品ばかりだから、イヤになって途中で出てきたんです!」

 川本さんが企画・監修し国内外のアニメ作家35組の競作によって松尾芭蕉の連句を映像化するという「冬の日」は、世界の作家から人望を集める川本さんでなければ実現しなかった途方もない「酔狂」でした。折口信夫の難解な(わざとわかりにくく書いたとしか思えない)小説「死者の書」を長編映画に、しかも手間のかかる人形アニメで、それも80歳の作家(公開時は81歳)が成し遂げたというのも前代未聞のわざです。

 非業の死を遂げた大津皇子の魂を藤原南家の郎女(いらつめ)の一途な思いが鎮める「死者の書」を読んで、川本さんは「これは人形のために用意された“執心と解脱”の物語だ」と思い、以来30年、映画化したいと考えていたそうです。完成した映画を見て、その「執心と解脱」の「と」にカギがあるのではと思い、インタビューで質問するとこんな風に答えて下さいました。

 「執心の先にこそ解脱がある。とらわれ、こだわって追い求めていかないと、解脱は見えてこない。そんな気がするんです」

 この言葉で私は川本作品の「カギ」が解けたような気がして、記事にこう書きました。

 「『執心の先の解脱』は、作品歴にもあてはまる。短編『火宅』『道成寺』などで、業火に身を焼く女を通じ執心の深さを描いた。そして本作で郎女は、皇子の魂を闇から引き上げ、清らかな光の中へ去っていく。自作を踏まえ解脱までを描いた本作は、川本美学の集大成といえる」

 でも肝心なところが分かっていなかったと、この取材の3年後、2009年に文化面の「追憶の風景」というインタビュー欄のために取材した時、気がついたのです。

 どこかある1カ所、思い出の風景を挙げて語っていただく欄で、川本さんが選んだのは大津皇子が辞世の歌に詠んだとされる「磐余(いわれ)の池」(奈良県)でした。「死者の書」に取りかかる前、車で走り回っても池が見つからず途方に暮れていた時、遠くの竹林で黄色い旗が手招きするように揺れているので行ってみたら、池の跡を示す木札と歌碑を見つけたそうです。「僕は『招かれた』と思いました。それまで、こんな難しい題材の長編は実現しないだろうと考えていましたが、出来るかもしれないという予感がしました」

 「奈良、京都で思い出すのは1943年、18歳の時の旅行です。中学の同級生で、後に黒澤映画の美術を手がけて有名になる村木与四郎と、2週間かけてしらみつぶしに寺を回りました。一番見たかったのは浄瑠璃寺の吉祥天女。新薬師寺の香薬師像は、僕らが見た翌日、新聞の記事で盗難に遭ったと知り仰天しました。中宮寺の菩薩半跏(ぼさつはんか)像は、今と違って普通の座敷に置いてあり、すぐ間近で見られてよかった。僕も村木も、戦争で死ぬだろうからその前に見たいものをすべて目に焼き付けよう、という思いでした」

 「死にゆく者」の目に、仏さまはどのように映ったのでしょう。ただ美しく、ただ安らかなものと見えたのでしょうか。ザッとまとめた原稿を読み返して、川本さんの仕事が、戦争で死んでいった(自分もその中のひとりになるはずだった)若者たちの魂を背負ったものだと気がつきました。「死者の書」の記事でも書いた「過去の戦争や現在のテロが生み出す、すべてのやすまらぬ魂のことを思って作った」という川本さんの言葉の重さを、私はてんで分かっていなかったのです。

 川本さんのお話を記事にするのもこれが最後かも知れない。そんなことを思いながら書いた「追憶の風景」(09年6月20日夕刊掲載)を、川本さんはメールでえらくホメてくださいました。シルクロードの歴史を人形アニメにするという長年抱いていた構想について語った、「シルクロードの映画は夢に終わりそうです。やれるのは、来世かな」という言葉を記事の締めにしました。この前の記事は「これが集大成」、今度は「来世」なんぞと、ご高齢の作家に無遠慮な書きぶりですが、これは「先生ならにこにこ笑って許してくださるだろう」という「甘え」でした。

 「『やれるのは、来世かな』というのが無念でしつこくて良いですね」

 そう川本さんはメールで書いて下さいました。さすが、執心と業の作家です。でも「無念」の語に、このときすでに病を得ていた川本さんの思いがこもっているようで、改めて川本さんが残した言葉と作品の重さを、かみしめています。

プロフィール

写真

小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。09年4月から報道局文化グループ記者。

検索フォーム

朝日新聞購読のご案内
新聞購読のご案内 事業・サービス紹介