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だから牧場は春なのさ

2011年3月28日

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写真:撮影中の木下恵介監督の写真(奥)と映画撮影用カメラ=2006年6月、静岡県浜松市の木下恵介記念館(当時)で拡大撮影中の木下恵介監督の写真(奥)と映画撮影用カメラ=2006年6月、静岡県浜松市の木下恵介記念館(当時)で

写真:「天才監督 木下恵介」(新潮社)拡大「天才監督 木下恵介」(新潮社)

 若い黒牛(くろうし) 黒牛が
 可愛い 牝牛に
 あのねと云(い)ふた
 あのねのその後
 云へなんだ
 だから 牧場(まきば)は春なのさ
 いつでも いつでも
 春なのさ

 いい詩ですねえ、とてもリズミカルで音楽的で。これはサトウ・ハチローの詩「青春牧場」の一節。名匠木下恵介監督が、弟の木下忠司に曲をつけさせて自作「わが恋せし乙女」(1946年)に使ったそうですが、後に木下監督の「喜びも悲しみも幾歳月」(57年)の主題歌(おいら岬の〜灯台守は〜)を作った作曲家の心躍る軽快なメロディーが大受けし、当時の流行歌になったそうです。映画の中でどんな風に歌われているのかは残念ながら想像するばかり。この映画、見たことがないんです。

 この詩と映画のことは、監督の評伝「天才監督 木下惠介」(長部日出雄著、新潮社)で知りました。手元に適当な読みものがなくなったので(というのも失礼な話ですが)長い間「積ん読」状態だったこの本を読み始めたら面白いのなんの、テレビのニュースや新聞記事で沈みがちな心を元気づけてくれます。実は木下作品は未見のものが結構あるので、そのガイドにと手に入れた本ですが、奥付を見ると発行は2005年。ずいぶんともったいないことをしましたが、いま手にしたのも何かの巡り合わせでしょう。

 500ページを超す大著ですが文章は平易で読みやすく、映像が目に浮かぶように巧みに映画を語り、作品から著者が受けた当時の印象と個人的な回想が興趣を添え、そして謎めいたところもある名匠の内面に時に大胆に切り込む――。著者があとがきで「これは、伝記作家で映画批評家で、映画監督でもある人間が書いた本なのである」と自負するのも肯けます。

 ちなみに「母親がカフェーという水商売を営む家に育った」著者が小学6年の秋に「わが恋せし乙女」が公開されると、住み込みの女給さんたちに熱狂を巻き起こし、その年の大晦日は帰る家もない女給さんたちが「若い黒牛 黒牛が(ホイ)」と大合唱して著者もそれに加わったそうです。雪の舞う夜の街路に響く、哀しき女たちの陽気な歌声。まさに映画のワンシーンのようです。

 圧倒的な現実が目の前にあるとき、フィクションに何が出来るのか? フィクション(あるいは作品、あるいは娯楽)にはどんな力があるのか? そんなことを考えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。答えはいろいろあるでしょうが、「だから牧場は春なのさ いつでもいつでも春なのさ」とつぶやく時、この言葉が悲しみを受け止め、励ましを返してくれると感じます。それが、確かなフィクションの力のひとつだと思います。

 ちょうど先月、弊紙の名古屋の紙面で短いコラムを連載し、その中で「喜びも悲しみも幾歳月」を紹介しました。灯台守の妻の手記に感動した木下監督が脚本を書き、人里離れた土地で苦労を分かち合い支え合う夫婦を、激動の昭和史に重ねて描いた感動作。脇役の灯台守夫婦にこんないいセリフがあります。

 妻「沖を通る船だって、あたしたちの苦労を知っててくれるのかしら」
 夫「誰も知っててくれなくたっていいさ。俺の苦労はお前が知っててくれる。お前の苦労は、俺が知ってるよ」

 弱った心に効くクスリとして胸の奥にしまってある名セリフもまた、フィクションの力です。

 「天才監督 木下惠介」では、監督昇進を目前にして戦地に送られた木下青年が南京陸軍病院で療養中に詠んだ、こんな短歌を紹介しています。

 「鯉のぼり風に狂うや身もだえて ままならぬ世の空になやめり」

 もうすぐ春。ままならぬ世の中だって、「あのね」の先が言えなくたって、若い黒牛には春が来る。

 「だから牧場は春なのさ いつでもいつでも春なのさ」

プロフィール

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小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。2010年10月から名古屋報道センター文化グループ次長。

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