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奇妙な果実

2011年5月9日

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写真:「星を追う子ども」の主人公・明日菜 (C)Makoto Shinkai/CMMMY拡大「星を追う子ども」の主人公・明日菜 (C)Makoto Shinkai/CMMMY

写真:明日菜は不思議な少年シュン(左)と出会う (C)Makoto Shinkai/CMMMY拡大明日菜は不思議な少年シュン(左)と出会う (C)Makoto Shinkai/CMMMY

写真:明日菜は森崎(左)と地下世界に入る (C)Makoto Shinkai/CMMMY拡大明日菜は森崎(左)と地下世界に入る (C)Makoto Shinkai/CMMMY

写真:地下世界で明日菜を助ける少年シン (C)Makoto Shinkai/CMMMY拡大地下世界で明日菜を助ける少年シン (C)Makoto Shinkai/CMMMY

写真:「フラクタル」DVD&ブルーレイは東宝から順次発売拡大「フラクタル」DVD&ブルーレイは東宝から順次発売「フラクタル」を楽天で検索

 仰ぎ見るにせよ対抗するにせよ(あるいは無視するにせよ)いまアニメを作る人は、宮崎駿さんの存在から自由でいることはできないでしょう。もちろんアニメを見る側の人間も同じ。公開中の映画「星を追う子ども」(新海誠監督)を見て、そんなことをつらつら考えました。

 新海監督の前作「秒速5センチメートル」は傑作でした。「ほしのこえ」以来熟成を重ねて最高純度に達した「せつなさ」が、山崎まさよしさんの歌と同時にあふれ出すクライマックスは、見る者を陶酔的な感傷に包み込みます。この作品で「思春期へのノスタルジア」に区切りをつけたのでしょうのか、新海監督は新作でジュブナイル風ファンタジーという新たな地平に挑みました。

 山間の町に住む少女・明日菜が、妻を亡くした男・森崎と共に、失われた文明が息づく地下世界アガルタに踏み入り、死者をよみがえらせることができるという禁忌の聖地に向かう物語。目指したものは、リアルなディテールの日常描写、古代風モチーフをちりばめたスケールの大きなファンタジー世界、容貌(ようぼう)も性格もまじめで素直な主人公、試練を乗り越えての成長ドラマ、死生観や文明論に踏み込んだテーマ性です。はやりのラインのメカ&美少女とか、ハードなセックス&バイオレンスとか、めくるめく虚実混交とか、世界観をひっくり返すメタ展開とか、そんなオタク趣味的ガジェット(仕掛け)はナシ。まさに正統派ジュブナイル、王道を行くファンタジーです。

 現代においてコレをやると当然、宮崎アニメを意識せざるを得ず、宮崎アニメと比較されることになります。新海監督にソレを受けて立とうという覚悟があることは、森崎があがめるように追慕する妻の声に島本須美さんを起用したことで明らか。言わずと知れた、宮崎監督の「ルパン三世 カリオストロの城」「風の谷のナウシカ」のヒロインです。ついでに言うと、明日菜を救うアガルタの少年シュンとその弟シンの声は、「千と千尋の神隠し」のハクを演じた入野自由さんです。

 正統に挑む覚悟と王道を行かんとするマジメさは、きちんと作り込まれた画面と落ち着いた雰囲気から伝わってきますが、主人公の動機(アガルタに来て何がしたいのか)が不明確なので物語は推進力を欠き、やや行き当たりバッタリ感が……。そして観客を困惑させるのが、宮崎アニメを想起させるディテールが「多すぎる」ことです。

 異世界へ導く青い石のペンダント(天空の城ラピュタ)とか、ヒロインの肩に乗るテト(風の谷のナウシカ)に似た小動物とか、山の中腹にせり出した平らな岩(もののけ姫)とか、シンが明日菜をピッタリ抱きかかえて水にドボン!(カリ城)とか、包帯グルグルのシンをヒゲの老人が診る(カリ城)とか、明日菜の体が透明な緑の粘液に包まれる(ハウルの動く城)とか、極彩色のシカっぽい生き物とか空飛ぶ巨船とか……。こうまで重なってくると、古文書の記述を頼りに異世界をゆく森崎と明日菜はまるで(森崎がクールなメガネのオヤジという外見も相まって)「ラピュタ」のムスカとシータが仲良くなった姿のように見えてきます。

 はてさて、宮崎監督の長男の吾朗さんが監督した「ゲド戦記」とか、宮崎監督が企画し脚本を書いた「借りぐらしのアリエッティ」(米林宏昌監督)といったジブリアニメには、宮崎アニメに似るべき(似せるべき)理由があるとしても(それが正しいか、それがうまくいったかは別問題)新海監督がここまで宮崎アニメに自作を重ね合わせる理由は何なのでしょう?

 思い出すのは、やはり「ラピュタ」を思わせる骨格&ディテールを持ち、そして重要な女性キャラに島本須美さんを起用していたテレビアニメ。この春まで放映されていた山本寛監督の「フラクタル」です。1974年生まれの山本監督と73年生まれの新海さんにとって、「ラピュタ」公開の86年はまさに思春期のトバぐち。自身の人生の起点として、あるいは立ち返るべき原点として、よっぽど大きく「ラピュタ」という作品が屹立(きつりつ)しているのかも――というのも私自身、年下の友人たちとオタク談義をしていると、しばしば「ラピュタ」の受け止め方に温度差を感じるからです。86年にはすでに大学生だった私にとって「ラピュタ」は好きな作品ではありますが、宮崎さんが東映動画(現・東映アニメーション)時代から「ナウシカ」まで取り組んできた種々のモチーフを取り入れつつ「未来少年コナン」をアレンジした、いわばセルフカバーみたいな作品に映りました。

 さて、実は公開中のアニメ映画にはもう1本、正統派ジュブナイル・ファンタジーを目指した作品があります。「スプリガン」などの川崎博嗣監督による「鬼神伝(おにがみでん)」。現代日本から平安時代にタイムスリップした少年が、オロチ(竜)を操る力を秘めていたために「鬼」と人との戦いに巻き込まれるという物語。じゃあコレも宮崎アニメに似てるの?というとそうではなく、竜の描写が東映動画作品「わんぱく王子の大蛇退治」(公開された1963年に宮崎監督が東映動画に入社)に似ていたり、「鬼」の集落の様子がやはり東映動画の「太陽の王子ホルスの大冒険」(宮崎さんが中心スタッフとして大活躍)を思わせたりして、スケールの大きなアクションは見応えがありましたが、私のアタマはこの奇妙な連環にどんな解があるのかないのかと思考がグルグルグルグル…。

 思い返すと不思議なことに、「星を追う子ども」も「フラクタル」も「鬼神伝」も、主人公に強い動機(コレがやりたい!)がないというところが共通点でした。「星を〜」の明日菜は前述の通り、「フラクタル」の主人公の少年クレインは周囲の人物の後を追い行く末を見届けることに終始し、「鬼神伝」の主人公はどちらにつくか決められぬまま「戦いをやめて!」という思いだけで最終決戦の場に突っ込んでいきます。動機なき主人公、はやりなんですかね。

 話を「一般論」に戻して締めくくりますと、ジブリ作品の監督であろうとそうでなかろうと、宮崎アニメを愛する方が作品を作る時、宮崎アニメ体験を根っこに持ち、そのテーマ性や精神性を作品の幹としてもいいですけど、枝の先に実る果実の外見を似せる必要はないと思うのです。宮崎さん本人以外の方がそんなことをしても、奇妙な果実が生まれるだけではないでしょうか。

 とはいってもある世代にとっての「ラピュタ」のように、「星を追う子ども」も「フラクタル」も(あるいは「鬼神伝」も)、いま思春期のトバぐちに立った子どもにとってはもしかしたら決定的な体験となり得るのかも知れません。数々の先駆作品を取り入れた作品がいくつも積み重なって、それらを取り入れた作品が生まれ、そしてまた――こういう無限の入れ子構造って、フラクタルって言うんでしたっけ?

プロフィール

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小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。2010年10月から名古屋報道センター文化グループ次長。

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