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2011年11月28日
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小原篤のアニマゲ丼

「女は農家の嫁になれ」と監督が言った?

文:小原篤

写真:「おもひでぽろぽろ」DVD(ウォルト・ディズニー・ジャパン)拡大「おもひでぽろぽろ」DVD(ウォルト・ディズニー・ジャパン)〈DVD「おもひでぽろぽろ」を商品検索〉

写真:高畑勲監督=2011年7月撮影拡大高畑勲監督=2011年7月撮影

写真:ロマンアルバム「おもひでぽろぽろ」(徳間書店)拡大ロマンアルバム「おもひでぽろぽろ」(徳間書店)

写真:「アルプスの少女ハイジ」ブルーレイメモリアルBOXがバンダイビジュアルから12月に発売されます拡大「アルプスの少女ハイジ」ブルーレイメモリアルBOXがバンダイビジュアルから12月に発売されます〈「アルプスの少女ハイジ」ブルーレイメモリアルBOX〉を商品検索

 このコラムでたびたび取り上げておりますアニメ評論家・藤津亮太さんによる朝日カルチャーセンター講座「アニメ映画を読む」。毎回1本のアニメ映画を取り上げ読み解くわけですが、11月のお題は高畑勲監督の「おもひでぽろぽろ」(1991年)。ラストで「『百姓の嫁になれ』って演出が叫んじゃった」映画である、と盟友・宮崎駿さんが評した作品です。再見して「自分がなぜこのラストに納得がいかないか納得がいった」ので、今回はそのお話をしましょう。

 原作は作・岡本螢さん、絵・刀根夕子さんの同名マンガ。映画は、主人公の少女が成長した「27歳編」を独自に加え、小学5年の「思い出編」と交互に描いていく構成を取っています。

 東京で生まれ育った平凡なOLタエ子が、休暇を利用して山形県の義兄の実家へ紅花つみを体験しに行きます。結婚したいわけでもなく、仕事に情熱を燃やすでもなし、中ぶらりんな気持ちを抱えたタエ子は、旅の前からなぜか小学5年の時の思い出がわき出して止まらなくなり、山形行きは、いろんなことでウキウキモヤモヤしていた過去の自分と向き合いながらの「自分探し」(あぁ、この言葉が陳腐化したのはいつごろだったんでしょう)の旅となります。

 これはまさに、「アルプスの少女ハイジ」「赤毛のアン」「じゃりン子チエ」を手がけてきた高畑監督による「少女の成長物語」の集大成。「青虫はサナギにならなければ蝶々(ちょうちょう)にはなれない。あのころをしきりに思い出すのは、私にサナギの季節が再び巡ってきたからなのだろうか」というタエ子のモノローグが、この映画のテーマをはっきりと示しています。

 「27歳編」の緻密(ちみつ)な映像はアニメーションによるリアリズムの到達点。温度や湿度、風の香りまで感じさせます(キャラクターのほお骨やほうれい線の描写には違和感がありますが)。「思い出編」はシンプルな線、マンガ的な表情、淡い色彩がノスタルジーをかきたて、熱海の温泉で浮かれてのぼせたり、生のパイナップルがおいしくなくてガッカリしたり、淡い初恋に天にも昇る心地になったり、ささいなことで父親にぶたれショックを受けたり、といった日常の機微をありありとした実感をもって描出。巨匠熟練の技がさえます。

 充実した気分で農家暮らしを楽しむタエ子は、義兄のまたイトコで脱サラ農業青年のトシオと親しくなりますが、帰京前夜、本家の婆っちゃに「そんなにここが気に入ったのなら、トシオの嫁に来てくれないか」と切り出されて我が身の軽薄さと偽善に気づき、いたたまれずに外へ。「私には何の覚悟もない。それをみんなに見透かされていた」と自己嫌悪に陥り、橋の上で雨に打たれているところをトシオの車に拾われます。車中で転校生のアベ君にまつわる苦い思い出をはき出したタエ子は、トシオに気持ちが傾いている自分に気づきます。

 そして問題のラスト。翌日、トシオや婆っちゃに見送られて帰りの電車に乗ったタエ子は、次の駅で下車して本家に電話。車で迎えに来たトシオと並んで歩くタエ子、その2人に相合い傘をかざしてはしゃぐ「思い出編」の子供たち、というファンタジックなシーンでEND。

 2人が結ばれるという結末は、なぜ唐突に感じられるのか、なぜ「演出家が主張を叫んじゃった」と受け止められたのか、なぜ当時の映画評で「結末が甘い」と批判されたのか。それはつまり、タエ子の決心に必然性が感じられないから。ドラマの中で彼女にきちんとオチがついていないから。ドラマをさかのぼって見渡して「あ、ココだ」というポイントに気づきました。帰京前夜の雨中の車内で、タエ子は「いい子」ぶる自らの偽善の仮面を外してトシオに心の中をぶちまけるべきだったのに、しなかったのです。

 不潔なアベ君をクラス中の女子が嫌っていましたが、タエ子は陰口の輪には入らなかった。でも転校することになったアベ君は、別れのセレモニーで自分とだけは握手しようとしなかった。いい子なのはうわべだけだと見抜かれていた、とタエ子は告白します。「子供のころからいい子ぶってただけ。今もそう」というつぶやきは、お客様気分で農業を手伝いチヤホヤされて浮かれていた自分を刺す言葉です。

 しかしトシオは、名探偵よろしくアベ君の気持ちを解き明かします。自分の汚い手で握手されるのをみんな嫌がってると知っている彼は、タエ子が好きだったから握手を拒んだのであり、友だちのいないアベ君がタエ子に威張ったり意地悪したりしたのは、そういう形で甘えていたからだ、と。これで、長いあいだ心に刺さっていたトゲを抜いてもらったタエ子は本家まで送ってもらう車中で、「私がいま握手してもらいたいのはトシオさんだ」といったモノローグを発しつつ、荷馬車の干し草の上に並んで座っている自分たちを夢想したりして翌朝の駅のシーンにつながるのですが、これだと「27歳編」のタエ子はまだ「いい子」の仮面がひっかかったままに見えます。ホームで、次に来る冬までにもう少し農業を勉強してくるワてなことを言うのも「いい子」の延長線上のようで、彼女の変化を感じません。

 そこで私が「ああ、こうだったらよかったのに」と夢想するのは以下のようなシーンです。

 アベ君は「いい子」ぶってる自分を嫌ってたんじゃないんだ、と分かったタエ子はもう取り繕うのをやめて、婆っちゃの言葉で自分の軽薄さを思い知らされたとトシオに明かし、チヤホヤされたかっただけで何の覚悟もできていない自分はもうここに来るべきではない、と告げる。しかしタエ子の本心に触れたトシオは「オレ、待ってますよ」。その気持ちに素直にこたえられないタエ子は、ホームで見送るトシオの笑顔を見つめることができないが、走り出した電車の中で――(以下は同じ)。

 こうすれば、電車を降りるタエ子の決心はトシオの言葉にこたえたものとなります。それまでの「思い出編」で重ねて描かれる小さな抑圧というか不遇体験は、タエ子が大人になってもまだ「いい子」の仮面をつけているもともとの原因として「27歳編」のドラマに接合され、冒頭のシーンでタエ子が会社の上司に「失恋でもしたの?」と休暇の理由をセクハラ質問されても笑顔で受け流す描写だって生きてきます。

 観光気分で無責任に農村賛美したタエ子と、まだ「受け売り」でしか農業への情熱や理想を語れないトシオは、互いの未熟さを認め合うことで共感することができれば、似合いのカップルと言えるでしょう。例えば雨中の車内でトシオが「オレだってまだ覚悟ないですよ」と言えば、彼の語ってきた青臭い理屈がドラマから浮いたものにならないはずです。

 子供時代のわだかまりが解けるのをジャンピングボードにして、古い自分を壊して新しい人生に飛び込む。まさに浄化(カタルシス)、「サナギ」からの羽化であり、スッキリするドラマになると思うのですが、いかがでしょうか?まあこういうのを後知恵って言うんですけど。

 ちなみに藤津さんの解説によると、高畑監督の書いた当初のシナリオではタエ子が電車に乗って帰るところで終わり、「その後」は観客の想像に任せるつもりだったのが、もう少しサービスが欲しいという鈴木敏夫プロデューサーの求めに応じて高畑監督がこの形に変更したそうです。「ロマンアルバム おもひでぽろぽろ」(徳間書店)の監督インタビューを読むと、タエ子Uターンの意図するところは「『嫁に行く』のでも、農業に身を投ずるのでもなくて、まず一個の男性としてのトシオともう1日でも2日でも付き合いたいから」であり、「あとは観る人の心にまかせたつもり」だったのだが「うまく二股をかけたつもりが、結局失敗したんでしょうね」と反省の弁を述べています。

 当時このインタビューを読んだ私は驚き、戸惑いました。どうしたって2人が結ばれるとしか見えないし、しかしあれだけ考え抜く高畑監督が「失敗」するなどとはまさか…と。これまた藤津さんによれば、鈴木プロデューサーはラストの変更を求める前に宮崎さんに「タエ子は山形に戻って来るんでしょうか」と問い、宮崎さんは「絶対帰ってこない」と答えたそうです。そして「宮さんがこう言ってます」と高畑さんに伝えて…という鈴木さん一流の「操縦術」はさておき、宮崎さんがそう答えるのはとてもよく分かります。本音をぶつけ合わない男女が結ばれるわけがない、というのはいかにも宮崎イズムですからね。

プロフィール

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小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。2010年10月から名古屋報道センター文化グループ次長。

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