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2012年7月9日
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小原篤のアニマゲ丼

ブドリはどうして死んだのか?

文:小原篤

写真:映画「グスコーブドリの伝記」のブドリ(右)と妹ネリ (C)2012「グスコーブドリの伝記」製作委員会/ますむら・ひろし拡大映画「グスコーブドリの伝記」のブドリ(右)と妹ネリ (C)2012「グスコーブドリの伝記」製作委員会/ますむら・ひろし

写真:杉井ギサブロー監督。「あらしのよるに」公開時のインタビューで2005年に撮影しました拡大杉井ギサブロー監督。「あらしのよるに」公開時のインタビューで2005年に撮影しました

写真:ネリは謎の男コトリにさらわれてしまう拡大ネリは謎の男コトリにさらわれてしまう

写真:ブドリたちは木に網をかけ「てぐす」を飼う作業をさせられる拡大ブドリたちは木に網をかけ「てぐす」を飼う作業をさせられる

写真:里に出たブドリは、赤ひげ(左)の畑で働くことに拡大里に出たブドリは、赤ひげ(左)の畑で働くことに

写真:ブドリが市へ出てみるとそこは大都会拡大ブドリが市へ出てみるとそこは大都会

写真:ブドリを導くクーボー博士拡大ブドリを導くクーボー博士

 今回はネタバレです。7日から公開中の「グスコーブドリの伝記」についてです。

 おっとイケナイ!映画を見てないのにうっかり本欄を読み始めてしまった、という人のために、ちょっと前置きをはさみましょう。

 映画記者などをやっていると、「ネタバレ」を気にしなくなります。映画評論家の先生や自社他社の記者と「あの映画どうでした?」などと話をする時、「いやーラストがちょっと」「どうなるんです?」「主人公が死ぬんだけど、それがああでこうで」「へー、そうなんですか」といった具合に、自分が未見でも(逆に相手が未見でも)ネタバレトークは珍しくありません。

 むろん紙面で取り上げる時は、ストーリー展開を明かすのは中盤くらいまでとか、ラストについて論評する時は具体的なことはボカして、といった配慮はします。それでもこの手の問題に敏感な方がいるもので、かつてとあるデスクに「小原君、ここでこの人が死ぬって記事で明かしていいの?」と聞かれ「あ、それは前半の展開で、そっからがドラマの肝なんで」と答えましたが、「映画を見てればそういうの分かるんだろうけど、見てない人が読むとバラされた気になって見る気が失せるよ。物語の紹介は映画を見てない人が書いた方がいいと思うんだよね」と、最後は冗談とも本気ともつかない“提案”をされ、返答に窮しました。

 もともとワタクシ、学生時代は映画の途中からでも映画館に入ってしまう(昔はたいていの映画館でそれができた)という「悪癖」がありまして、結末を先に見てもう一度初めから見るなんてことになっても「ラストが分かってちゃツマラナイ、なんて映画はしょせんその程度」とテンで気にかけないゴーマンな考えの持ち主でした。なので本欄でも気をつけているつもりですが、しばしば「ネタバレやめて」とお叱りの声を耳にすることも。でも、公開の終わった映画ならいちいち断らなくても結末を書いちゃうことがあるので、その点はご容赦(ご注意)ください。

 さて「グスコーブドリ」ですが、「なんだいネタバレも何も、主人公が火山を爆発させるためひとり居残って死ぬって結末だろ? 有名な原作じゃん。だいたいアンタ、コラムのタイトルでもうバラしてるよ!」とお考えのあなた、そうなのですがソレが少々風変わりなことになっておりまして、ラストを見た瞬間、私は目が点になってしまいました。

 ご存じ宮沢賢治の同名童話が原作。監督は杉井ギサブローさん、ネコのキャラクター原案はますむら・ひろしさんと、1985年の映画「銀河鉄道の夜」と同じ組み合わせです。丁寧に描かれた表情やしぐさ、密度感たっぷりの背景と、いかにも劇場作品らしいゴージャスな映像が味わえます。

 イーハトーブの森で両親と妹ネリと暮らしていた少年ブドリが、冷害と飢えのため父と母は森に消え(たぶん自死)、ネリは謎の男にさらわれ、独り山を下りて畑で働くも再び冷害に見舞われ、イーハトーブ市に出て火山局に職を得て、またも襲ってきた冷害を防ぐべく自らを犠牲にして火山を爆発させる、というお話。

 映画では、ネリをさらった謎の男コトリが巻き起こしたつむじ風に乗って、ブドリは火山島へ舞い降りていき、カメラはブドリの目線で、ゆっくり近づいてくる火山をとらえます。とその瞬間、エメラルド色の光が画面いっぱいにハジけて、小田和正さんのエンディングテーマがスタート! わたしゃ上映事故か?と思いましたよ。関係ない映像が紛れ込んじゃったのかな?と。しかし、そのファンタジックな光がイーハトーブの空へ広がっていき、ブドリの生涯を振り返る細かいカットがあって、畑で黄金色の穂が揺れている映像へ。「きみよ〜あいするひとを〜まもりたまえ〜」と小田さんが歌い上げます。

 聞くところによると杉井監督は、リアルな噴火描写は震災を連想させるので回避し、こんなファンタジックな表現にしたのだそうです。確かに原作も「次の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅(あかがね)いろになったのを見ました」とあるだけでドッカン!ゴゴゴ!!といった描写はないのですが、それならカメラを火山から外して間接的な描写にすべきだったのでは、と思います。ブドリ君が火山に近づいたらピカーンと光の粒がはじけてキラキラキラでは、まるで「さらば宇宙戦艦ヤマト」のラストのテレサです。ブドリ君は反物質人間だったの?

 この映画でひっかかった点はほかにもあります。ネリをさらわれ独りになったブドリが「てぐす工場」で働かされる場面、原作ではここで数カ月を過ごしてから里に下りて畑で働くことになっているのですが、映画では工場シーンが丸ごと「気絶してたブドリの夢(幻想)」という風に見えるので、さっきまで日照不足による飢饉(ききん)だったはずなのに夢から覚めたブドリが里に下りたら青々とした畑が広がっている、というおかしなことになっています(それとも数カ月間、幻想世界にいたのか?)。

 イーハトーブ市も、林立する摩天楼の間を飛行船が飛び交うメトロポリスになっていて、こんな巨大な物質文明が成り立っているなら日照不足による不作程度で飢饉(ききん)になりそうもないし、火山局のエレクトロニクスな観測機器を見ていると、ブドリ君が残って爆弾を爆発させなくても科学の力で火山島噴火くらい何とでもなりそうな気がします。ウーム、これでいいのかなあ…。

 原作からの変更点で大きいのは、ネリが死んでいること。原作終盤でブドリは大人になったネリと再会しその夫や子どもとも会います。なので、ネリ一家を死なせてはならないという思いもブドリの自己犠牲の動機に含まれているのだろうと読めます。映画では、ブドリはネリとの別離後しばしば現実を離れて不可思議な幻想世界にトリップし、ネリの姿を捜します。コトリの徘徊(はいかい)するその世界は「死者の国」のようなものであり、コトリは死の使いとしてブドリを火山へ導く役割を果たします。ブドリはネリのいる「あの世」にずっと惹(ひ)かれ続けていたという解釈で、動機に含まれるベクトルが逆方向になっています。

 自己犠牲の裏に甘美な死の誘惑。これはこれで面白い読み替えであり、「銀河鉄道の夜」を濃い「死の気配」に染め上げた杉井監督らしい作劇だな、と思いました。カムパネルラに去られたジョバンニは、銀河鉄道を降りて生の世界に戻りますが、杉井版ブドリは妹の姿を追い求め死の世界へ身を投げ出します。ブドリの内面における生と死のせめぎ合い、という観点からもう一度見直してみると面白そう。「ラストが分かってちゃツマラナイ、なんて映画はしょせんその程度」ですからね。

 さて余談。映画「銀河鉄道の夜」はその「死の気配」たっぷりの暗い幻想味が大好きな作品ですが、見返すたびにアチャチャと思うのが、ネコだけの世界に入り込んでくる人間のキャラクター。乗っていた豪華客船が沈んで死んだ姉弟とその家庭教師が、銀河鉄道に乗り込んでくるのですが、同じ時期に監督が手がけていたテレビアニメ「タッチ」のキャラそっくりなので、興をそがれます。

 「銀河鉄道の夜」について話すたびに「あのタッチの姉弟さえなきゃね〜」とボヤいてきたのですが、なんと今作「グスコーブドリ」にも出てきましたよ「タッチの姉弟」! 一瞬でしたが、見逃した方はぜひもう一度劇場へ。いえ、別にあれこれクサしたのをフォローしようとしてるわけじゃないですよ。

プロフィール

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小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。2012年4月から名古屋報道センター文化グループ担当部長。※ツイッターでもつぶやいています。

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