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2012年10月22日
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小原篤のアニマゲ丼

機関車を撮って描いて動かして

小原篤

写真:トークをする大塚康生さん(右)と南正時さん。後ろは大塚さんのスケッチを引き伸ばしたパネル=東京・荻窪のギャラリィ・ゴーシュ拡大トークをする大塚康生さん(右)と南正時さん。後ろは大塚さんのスケッチを引き伸ばしたパネル=東京・荻窪のギャラリィ・ゴーシュ

写真:大塚康生少年が1944年に描いたD52のスケッチ拡大大塚康生少年が1944年に描いたD52のスケッチ

写真:「D52休息」函館本線大沼にて=1969年、南正時さん撮影拡大「D52休息」函館本線大沼にて=1969年、南正時さん撮影

写真:スケッチ旅行をしていた頃の大塚康生少年拡大スケッチ旅行をしていた頃の大塚康生少年

写真:大塚さんが当時を振り返って描いたイラスト拡大大塚さんが当時を振り返って描いたイラスト

写真:トークショーにはたくさんの人がつめかけました拡大トークショーにはたくさんの人がつめかけました

 蒸気機関車は撮るものか描くものか動かすものか? 「ルパン三世」(1971年)、「未来少年コナン」(78年)などの名アニメーター大塚康生さんと鉄道写真の第一人者・南正時さんのトークショーに行ってきました。

 大塚少年が戦時下に山口や九州で描いた機関車のスケッチと南さんが撮った機関車の写真、計25点を展示する「大塚康生・南正時 機関車少年だったころ」が、31日まで東京・荻窪のギャラリィ・ゴーシュ(03・3393・3449)で開かれており、その関連イベントとして13日に開催されたトークは50人以上のお客さんで満員立ち見。しかも顔ぶれが、小田部羊一さん(ハイジや三千里の作画監督)、ひこねのりおさん(「カールおじさん」生みの親)、おおすみ正秋さん(ファーストルパンの演出家)、友永和秀さん(ルパン、ヤマト、999などの名アニメーター)、加藤久仁生さん(「つみきのいえ」でアカデミー賞)……と、まあ豪華なこと!

 もともと、南さんがファーストルパンを制作していたスタジオのスタッフだった時、仕事の合間に撮っていた蒸気機関車の写真を大塚さんに見せたところ、戦争中の44〜45年に大塚さんがノート2冊にわたってペンで描いた精密な蒸気機関車のスケッチを見せられたのが、2人の「機関車少年」の今も続く交わりの始まり。南さんの写真を見た「ルパン」の版元の編集者が、週刊誌の巻頭グラビアの仕事を依頼。「南君はアニメの才能はないから写真の道に進みなさい」という大塚さんの「助言」もあって、南さんは写真家人生のスタートを切ったのでした。

 前置きはここまで。では、ひょうひょうとした大塚節をお楽しみください。

    ◇

大塚さん「蒸気機関車になぜのめり込んだのか、よくわからない。津和野(島根県)からバスで1時間くらいの山奥の村に生まれて、津和野で蒸気機関車を初めて見て、狂いましたね。日がな一日ながめていた。本も雑誌もない、写真も手に入らない、だからスケッチを始めた。小学校1年のころです。ここに展示してあるのは昭和19、20年の終戦をはさんだ時期に描いたもの。14歳とか、そのくらい。先生が兵隊に行っちゃって、いないもんだからろくに授業がない。朝早くから出て行って、ご飯は機関士に乾パンわけてもらったりして、のんきな時代でしたね」

司会のなみきたかしさん「いやいや、のんきな時代じゃないでしょ」

大塚さん「のんきじゃないけど、子供にとってはね。三つくらい年上の人は兵隊に行って白い箱で帰ってくる。僕は境目の年代。この戦時下の大変な時に何してる、とも言われなかったね。機関車の真横のところに少し離れて座って、鉛筆で軽く下書きして、インクつぼとペンで描きました。いい紙がなくてね、友達のお父さんが大学時代に使っていたノートの余りの紙をもらったりした。描いてるうちにうまくなって、そうすると機関士が形式とかこれは何の装置だとか教えてくれる。蒸気機関車はメカが全部外へ露出していて、止まっている時もシュンシュンとうなっていて、生き物みたい。人間的なんです」

「昭和19年は学徒動員で下関に行ったんですけど、機関庫の人たちは何であんなにやさしかったのか、本当にかわいがってもらった。行けば『ボウズまた来たか? なに描いた?』。『この子は機関車の絵が好きでいっぱい描いてるから九州まで乗せてやってくれ』と頼んでくれて、『山口に帰るのか? だったら俺の機関車に乗ってけ』って言う。助手席の前が空いていて、そこに入れてもらって、駅を通過する時は、身をかがめると見つからない。降りる時は(駅の手前で)スローダウンしてくれる。イモ畑があると途中で機関車を止めてね、お百姓さんに『いいかい?』ときくと『いいよー!』。イモ掘って、釜の後ろのところに並べておくと、3駅くらいでおいしいヤキイモになる。のどかな時代だったね。親も3日くらい帰ってこなくたって何も言わなかった。見放してたんでしょうね」

「終戦の頃は、日本の蒸気機関車の頂点でしたね。明治の機関車まで走ってた。金属が貴重で除煙板が木だったり、正面のナンバープレートのところに『八紘一宇』とか『神州不滅』と書いた板がついていた。終戦直後に、その板が機関庫の裏に捨ててあって、みんな薪になりました。機関車の作動原理、ここを押せばこう回ってという理屈というのかな、後にアニメーションを始めた時には、そういう『動き』には敏感だった。だから役に立ったような気がします。気がするだけです。そのあと蒸気機関車を卒業して、進駐軍のジープが面白くて入れあげた。ジープを描いてて、何してるんだ?とMP(憲兵)に捕まったこともありました」

南さん「MPはやさしくなかった?」

大塚さん「やさしかったですよ。ペンがよくないね、と言ってペンをくれたり、紙をくれたり。助かったよ、いい紙だったから」

南さん「今回、大塚さんのノートとずいぶん久しぶりに再会しましたが、紙が良くないのでかなり劣化している。スケッチは全部で150枚デジタルスキャンしました。ここに展示したのはほんの一部。JR東日本の車両部長だった人が見に来て、C52なんていうほとんど資料の残っていない機関車の絵にビックリしてましたよ。『文化的価値が大きい』って。これをまとめて、何とか残したいんですよね」

大塚さん「まあ結局、蒸気機関車を描いたことが後のアニメーションに役に立ったかというと、立ちませんでしたね。ただ、量を描くことは苦にならなかった。子供のころからたくさん描いてきたからかな。ヘリクツですけど」

なみきさん「いやいや、さっきのお話ではやっぱり役に立ったんじゃないんですか」

大塚さん「いま宮崎(駿)さんが作っている映画、蒸気機関車が3回出てくるそうです。『走るの?』ってきいたら『走る』って。大変だろうね、描くのが。機関車は線が多過ぎてね。とうとう僕らの時代には動かすことができなかったね。『銀河鉄道999』が一番、機関車を動かしてたかな」

小田部さん「『パンダ・コパンダ』があるよー」(←大塚さんと小田部さんが作画監督を務めた「パンダ・コパンダ 雨ふりサーカスの巻」のこと)

大塚さん「あれはオモチャ(みたいなもの)で、水の中でしたから」

南さん「ルパンでも1回、森の中を暴走しましたよね、おおすみさん?」

おおすみさん「僕の手がけた中じゃ機関車は出てきてない」

大塚さん「そのあとだね、後半」(←ファーストルパンは途中で演出が高畑勲さんと宮崎駿さんに交代。話題になっているのは21話「ジャジャ馬娘を助けだせ!」)

おおすみさん「僕がいなくなって、大塚さん解放されてもう(笑)」

大塚さん「やっぱり宮崎さんの影響でしょうね。いやー、蒸気機関車は絵に描くもんじゃないですよ、やっぱり写真だね」(会場大笑い)

    ◇

 というわけで、豪華重鎮たちによる思わぬこぼれ話も聞くことができ、楽しいトークショーでした。

プロフィール

写真

小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。2012年4月から名古屋報道センター文化グループ担当部長。※ツイッターでもつぶやいています。

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