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松田優作、没後20年の帰還 下関、公式映画を上映

2009年12月10日

写真:松田優作さんの思い出を語る奥田瑛二さん=東京都港区松田優作さんの思い出を語る奥田瑛二さん=東京都港区

 山口県下関市出身の俳優、松田優作さんが亡くなって今年で20年。遺族や知人は、あらためて早すぎる死を惜しむ。そんな松田さんの公式ドキュメンタリー映画「SOUL RED 松田優作」が11月から公開され、故郷の下関市に唯一残る映画館「下関スカラ座シアター・ゼロ」でも上映が始まった。

 「偉大なことをしたい」

 松田さんは母校の下関市立神田小学校の卒業文集にそう書き残した。市内に暮らす次兄、丈臣さん(70)宅の玄関や居間の壁には、松田さんがロケ現場で仲間の俳優と一緒に写ったパネルが飾られている。「やんちゃな弟だった。有名になるとは思いもしなかった」

 丈臣さんは東京・新宿で映画を見たという。「優作がよみがえったみたいで、しみじみとした」

 松田さんは3人兄弟の末っ子として同市今浦町で生まれた。1967年、市立下関第一高校(現・県立下関中等教育学校)2年のとき、米国の親族を頼ってカリフォルニア州の学校に留学。翌年に帰国して俳優の道に進み、73年に出演したテレビドラマ「太陽にほえろ!」のジーパン刑事役で人気を得た。

 高校時代からの親友で、東京で劇団をつくっていた同市の吉田豊さん(59)は「ふるさとに抱く感情は複雑だったはずだ」と話す。松田さんは在日コリアンだったが、公にしていなかった。「差別があって、本人は口には出さなかったが嫌な思いもしたのだろう。役者になって街を出て、人生を変えようとしたのかもしれない」と考えている。

 「なんじゃあ こりゃあ!」。ジーパン刑事がドラマで銃撃されたシーンのせりふが、注目を浴びた。吉田さんはこう思う。「下関の方言のようだ。一番の決めぜりふには地元の言葉が出たのだろう」

 エグゼクティブプロデューサーとして映画製作に携わった松田さんの妻美由紀さんは「下関の海を見て育った優作が、何を感じて、何をつくっていったかを知ってほしい」と話している。

     ◇

 俳優の奥田瑛二さん(59)は「下関スカラ座シアター・ゼロ」の支配人。松田さんと同年代で、役者として同じ世界で活躍してきた。「SOUL RED 松田優作」の上映にあたって、松田さんへの思いを聞いた。

 ――松田さんとの接点は。

 強烈な思い出がある。最初の出会いはけんか。24年前に渋谷で優作さんに頭をこづかれてエレベーターの中で格闘し、歌手の内田裕也さんの仲立ちで「手打ち」をした。

 優作さんの遺作となったハリウッド映画「ブラック・レイン」への出演依頼が僕に来ていた。当時、千利休を描いた映画への出演が決まっていたので断った。その後、オーディションがあり、優作さんの出演が決まった。89年に有楽町マリオンで公開日が一緒になり、両方とも超満員。因縁だなと思った。

 ――松田さんを俳優としてどう見ていた。

 優作さんは拳銃を持ち、サングラスをかけたハードボイルド。僕はそうじゃないものがしたかった。優作さんはハードボイルドのトップランナーで、自分の役者人生の中で大きな存在だった。この世界の中で、優作さんがいて自分がいるんだと思っていた。

 ――地元へのメッセージを。

 優作さんを見直せる機会。世界に通用する俳優をプライドに思ってくれるとうれしい。全国のファンを集めたフェスティバルをすれば盛り上がると思う。故人ではあるがフィルムの中で生きている。下関でこれからどうかかわるべきか、見えてくると思う。

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