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吉田喜重監督、ブラジルとの深い「縁」語る

2008年11月27日

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写真ブラジルの思い出を語る吉田喜重監督(左)と岡田茉莉子さん写真「ウエルカム・トゥ・サンパウロ」を撮影する吉田喜重監督

 開催中の東京フィルメックスで、オムニバス映画「ウェルカム・トゥ・サンパウロ」に参加した吉田喜重監督と、妻で俳優の岡田茉莉子さんが26日会見し、ブラジルとの浅からぬ縁を語った。(アサヒ・コム編集部)

 同作はサンパウロ映画祭の代表レオン・カーコフ氏の企画。イスラエルのアモス・ギタイ、台湾のツァイ・ミンリャン、フィンランドのミカ・カウリスマキ、ブラジルのダニエラ・トマスら名だたる監督も参加したドキュメンタリー17本のオムニバス。吉田監督は「ウエイトレス」と題した短編を制作。サンパウロの日本料理店に勤める日系3世の女性従業員を、岡田さんが店内でインタビューした。サンパウロの街や人々の印象、これまでの苦労、日本や日本人への思いを引き出す。

 吉田監督によると、カーコフ氏から撮影依頼があった03年は節目の年だった。「サンパウロ映画祭に審査員として招かれた。私の回顧上映があり、小津安二郎監督の生誕100年でもあり、忙しかった。演出を頼まれたのは、帰国の出発前々日だった」と語る。

 「映画に出演した女性従業員を、カーコフさんに紹介された」と、おぜん立てされていたことを打ち明け、「私には作品を語る資格はない」と自嘲気味に話す。だが、抽象的で難解な作品を撮る監督が多い中で、日本人のブラジル移民100年という時宜にかなった作品に仕立てた。

 吉田監督とブラジルの縁は深い。初めてサンパウロを訪れたのは91年。同地で代表作「エロス+虐殺」を上映したいという申し入れがあった。自著「小津安二郎の反映画」のポルトガル語の訳書もカーコフ氏らの尽力で出版されたという。

 「私の映画をサンパウロの人たちが見たのは、なんと61年。(デビュー作の)『ろくでなし』が1年後には上映された。日本人街の近くに松竹の映画館があって、私が撮った松竹映画6本すべてが上映されていた」

 大島渚、篠田正浩両監督とともに松竹ヌーベルバーグの旗手だった吉田監督は、その30年後、同世代以上のブラジルの批評家、監督らと話す機会があり、「発見」をした。「彼らは日本のヌーベルバーグに衝撃を受け、その影響を受けた。ブラジルの経済、政治状況を考えると、フランスのヌーベルバーグより日本の方がアクチュアリティー(現実性)がある。30年後に、初めてそのことを知り、映画は不思議な力があり、すばらしいコミュニケーションができるメディアだと思った」

 一方、岡田さんは「ウエイトレス」について、「受けたことはあっても、インタビューをしたことはなかった。吉田(監督)は『やってみたら』と。うまくいったか分からないが、いい経験をさせてもらった」と話す。

 「(サンパウロ映画祭での)小津さんの回顧上映の中で、父(岡田時彦氏)の映画『東京の合唱(コーラス)』をやっていて、映画館に足を運んだ。サイレントですが、若いピアニストが絵(映画)を見ながら即興で弾いていた。まるで違う映画、新しい映画という感じで、感動した」と思い出を語った。

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