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映画評論家 佐藤忠男 追憶の風景・テヘラン

2009年3月10日

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 いろんな国で映画を見たけれど、最も多く参加したのはテヘランの映画祭。15、16回は行っています。最初は、イスラム革命前の70年代半ば。緑したたる風景が素晴らしくてね、砂漠の国だと思っていたから驚きました。

 そこで見たイラン映画も、中東に対する先入観を快く破ってくれました。いまや巨匠のダリウシュ・メールジュイの作品。田舎者の男が都会で騒動に巻き込まれる喜劇で、どこか寅さんに通じる人情味がありました。

 行ってみてわかったのは、乾いた土地だからこそ、水を大切にし、緑を育てる気持ちが根付いていたこと。厳しい砂漠の国どころか、情緒纏綿(てんめん)たるものがある。浅薄な知識を反省し、好奇心を大いにかき立てられました。

    ◇

 79年には山田洋次監督とタイ、フィリピン、インドネシアを回り、80年には北京と上海で日本映画の講演をしました。なぜかアジアを訪れる機会が続いたんです。様々な出会いがあり、仕事も大きく変化していきました。

 どこでも観光に誘ってくれるんだけど「それよりあなたの国の映画を見せて下さい」と言うのが私の癖。そんな外国人は珍しいから先方は大あわて。「インテリは自国の映画など見ない」と言われたこともありました。

 でもね、見ると面白いんですよ。例えばタイの「傷あと」。古風なメロドラマもいいなぁと思いました。監督のチャード・ソンスィーとは、06年に亡くなるまで家族ぐるみのつきあいになった。フィリピン映画はタイと全く違って血生臭い。スペイン風のかっこよさがあった。インドネシアでは女中さんの待遇を風刺した喜劇を見た。大評判をとったおかげで女中さんの給料が上がったそうです。

 ひと口にアジアといっても、映画は実に様々で、社会を動かす力もある。日本映画を見せるだけでなく、アジアの作品を日本に紹介しなければ、本当の文化交流とは言えないのではないか。そう思って様々な上映企画にかかわるようになりました。

 ただ、自分が外国を紹介するのにふさわしい人間だなんて思ったことはありません。どこの国の映画も見るし、評論も書くけれど、語学ができないと外国映画の本格的な研究は難しい。文筆家として勝負するのは日本映画だと決めていました。日本の映画産業がどん底の時期にアジア映画と出会ったのは、思えば不思議な巡り合わせです。

    ◇

 実は、アジア映画に対する最初の関心は、日本を批判した作品を見たいというものでした。それを反省材料にできないかと考えたのです。でも実際は、日本は多様なテーマのごく一部にすぎなかった。戦前の中国の「抗日映画」も、実態は日本憎しではなく、「内輪で争っている場合ではない」と中国人の自覚を促すものだった。まじめで芸術的な映画も多い。虚心に作品を見て、敬意を表するところから始めるべきだと思い直しました。

 アジア映画と出会ったことで、映画を通じて世界を見渡すことができるのだと思うようになりました。その国のごくふつうの人の立ち居振る舞いを見ることができる。そこに共感できる。そんな文化は、映画以外にない。だから外国に行くと言うんです。「あなたの国の映画を見せて下さい」と。

    ◇

 「天皇への忠誠心が乏しい」と中学入学を拒まれ、少年兵に。戦後は働きながら勉学を続けた。映画評論を志す契機となった1本が、「戦争と平和」(47年、山本薩夫・亀井文夫共同監督)。難民の群像に衝撃を受けた。初めて見る中国人の姿だった。(深津純子)

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 さとう・ただお 1930年、新潟市生まれ。国鉄、電電公社、「映画評論」「思想の科学」編集部を経て62年からフリー。『日本映画史』全4巻など著書多数。

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