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小室が飽きた小室サウンド

2008年11月8日

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 90年代を席巻した小室哲哉プロデューサーが億単位の詐欺の疑いで逮捕された。ミリオンセラーを連発した「時代の花形」は、何を目指して音楽を作っていたのか。再考してみたい。小室サウンドとは何か。(西正之)

■一時渡英、基礎固める

 90年代半ばの音楽シーンを支配したと言っていい「小室サウンド」。その基本は、シンセサイザーの音色と強烈なビートが彩る、洋楽由来のダンス音楽だ。踊れることを重視し、速い曲もスローな曲も、歌は高音を振り切る激しさで起伏する。まるで目に見えるような音楽なのだ。

 小室と同時代にヒットを連打したプロデューサーに、小林武史がいる。小林はマイ・リトル・ラバーやミスター・チルドレンなど、メロディー重視のJ―POP路線で国内に地歩を固めた。2人の違いは、小室の方は、常に「外」を指向していたことだ。

 小室は83年に3人組のバンド、TMネットワークを結成。86年に渡辺美里が歌った「My Revolution」の作曲で最初の成功をつかむが、2年後に英国に渡って拠点を移す。当時流行したユーロビートやレイブというダンスパーティーに出会い、これで小室サウンドの基礎が固まった。

 帰国後、英国発の黒人移民のダンス音楽ジャングルを取り入れた「WOW WAR TONIGHT」が95年に大ヒット。その年から4年連続で日本レコード大賞受賞。安室奈美恵の「CAN YOU CELEBRATE?」を頂点に、94〜97年には20曲が100万枚以上を売り上げた。自分で演奏するだけでなく、他人に提供した楽曲が次々当たる。96年4月には安室、華原朋美、globe、trfら、小室の書いた曲がシングルチャートの1〜5位を独占した。

 小室サウンドは「売れる定式」の反復だという批判はあった。ただ、例えば坂本龍一は評価した。小室と坂本の音楽を比較分析した『楕円とガイコツ』(太田出版)が坂本の小室評を紹介している。〈小室さんを批評する人はね、パターンだけで作ってる人とか、いろんなことを言うし、そういう面もあるんだけど、一見あたりまえのコード進行でもってきても、必ず小室になっている(中略)それは頭とか技術ではなくて、才能ですけどね。そこがマジックなんですよね〉

■海外進出でつまずく

 人気絶頂の中、米ロサンゼルスに拠点を移すと、米国デビューし、フランスでも活動し、香港に拠点を作り、活動は海外に傾斜していく。

 99年、朝日新聞の音楽担当記者に、小室はこんなふうに語った。「プロデューサーとして、ある時期の日本の市場を作った自負はある。でも近年、ミュージシャンとして方向転換の必要を感じた」「海外の要素を日本流に取り込んでヒットを出す手法は、いろんな人がやるようになった。もっと濃度の高い、最新型の音楽を出したい。日本の一般のリスナーには突拍子もない音かもしれませんが」

 自分が築いたものに飽きた――そんなふうにも受け取れる。小室は早熟だった。キャリアの頂点は5年ほどだが、3歳でバイオリンを始め、やがてシンセサイザーに目覚め、中学で作った曲は教師を驚かし、音楽漬けの暮らしで早稲田大を除籍された。ヒットチャートを塗りつぶし、もう十分と思うことはあり得る。

 『楕円〜』の著者で音楽アナリストの山下邦彦さんは99年のある日、台湾で公演する小室を衛星放送で見て驚いた。「歌のない演奏中心。ダンス音楽だが、日本でやっていたものとは全く違った」

 海外進出で、だが小室はつまずく。香港の事業で大損失を負ったと報じられている。創造の冒険も、手足を縛られたろう。一方、もう身が入らない日本での仕事は、陰りが見えて当然だった。作曲家としての年間売り上げ枚数は、98年は2位ながら前年の半分以下(オリコン調べ)。その後どんどん落ち込んだ。

 小室は小学校5年で行った大阪万博で、作曲家で、日本のシンセサイザー演奏のパイオニアである冨田勲の音楽に衝撃を受けた。その冨田は、小室の逮捕についてこう述べた。「あれだけいい音楽を作っていたのに。信じられない。人をだます気持ちがあれば、一般大衆に向けた曲など作れないはずだから」

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