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作編曲家・ピアニスト 前田憲男 追憶の風景 赤坂(東京)

2009年10月31日

写真前田憲男さん

 将来の選択肢は色々あったんです。大阪にいた頃からプロとしてピアノを弾いていましたが、気分はアルバイトの延長。両親のように教師になる道もあったし、四コマ漫画を地方紙に半年ほど連載したこともある。プロのミュージシャンとしての自覚が芽生えたのは、20歳で上京して赤坂のナイトクラブ「ラテンクォーター」で演奏するようになってからですね。

 ここは外国人向けの高級クラブで、原信夫さんとシャープス&フラッツや、歌手のビンボ・ダナオが出ていた。僕は自分のトリオで出演しましたが、店からの注文は特になし。ジャズのスタンダードやリクエスト曲を好きなように弾かせてもらった。ショーなどで使う音楽の編曲も注文されて、大学進学のための資金稼ぎぐらいの気持ちから、だんだんプロとしての覚悟が固まっていった。

     ◇

 午前3時半ごろに仕事が終わり、新橋駅まで歩いて始発で東中野のアパートに帰るという生活が、半年ほど続いたでしょうか。まだ真っ暗な路上には、松葉づえをついた片足のストリートガールもいた。米軍キャンプで見たタップダンスに影響されて「これからはミュージシャンも色々できなきゃ」とスクールに通ったのもこの頃。

 新橋のクラブ「マヌエラ」に移り、さらにレパートリーが増えた。ここでもショーの編曲を担当したけれど、30分ごとに違うショーが始まるし、遅刻してくるタレントもいる。短い打ち合わせで譜面やメモを用意して初見でやらなければならない。信じられないぐらい譜面に強くなった。なんだかんだあってもピアノ演奏は格好がつく。メンバーには「わからなくなったら黙ってろ。おれが何とかする」と。来日していたピアニストのジョージ・シアリングが僕の演奏を気に入って、連日聴きに来てくれたのも自信になった。

 大卒初任給が1万円台だった時代、僕らミュージシャンは4万円ぐらい稼いでいた。それでも、長男が生まれたとき将来が不安になって、アレンジャーに転向しました。民放局が続々と生まれ、日劇や国際劇場も活気があって、仕事は腐るほどあった。寝る間も惜しんで働いて月収は10倍に。一度、過労で入院したんですが、番組ディレクターが見舞いと称して台本を渡しにきて、病室でも譜面を書いていた。

 音楽番組ではクラブ時代の経験が生きましたね。タップをやっていたおかげで、振付師の要望も理解できた。生放送のドラマでは、小道具の陰にピアノを置いてセリフを聴きながら場面つなぎの演奏を10秒、という感じで。

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 今、大学生に講義していますが、あまり僕自身の経験は教えません。基本的には「自分で考えろ」。僕自身、ピアノや編曲は独学だし、音楽に一生をささげるということやミュージシャンとしての心構えも、赤坂の現場で毎晩音を出しながら学んだ。指揮についても本は読んだけれど、結局は実際に目にして感じて会得するのがいちばん能率がいい。もう宮本武蔵ですよ。

 これまでレコードもコンサートも人に頼まれてやってきた。今の目標は、100歳の誕生日に自分で企画してコンサートを開くこと。100歳を通過するとき現役のピアニストでいたい。こないだオーストラリアの100歳の女性が砲丸投げで世界記録を作ったそうだし、僕も実現させたいですね。

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 今も月に10本前後のライブに出演し、ジャズの魅力を広めている。夏にハンク・ジョーンズと共演したのを機に禁煙も続行中だ。11月17日に浜離宮朝日ホールで公演。(藤崎昭子)

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 前田憲男(まえだ・のりお) 34年生まれ。「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」「11PM」の音楽や、原信夫とシャープス&フラッツの編曲などを手がける。大阪芸大教授。

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