2009年11月11日
森繁久弥さんの次男、建(たつる)さんが11日、東京都内で記者会見をした。主な内容は次の通り。
【冒頭あいさつ】
次男の建と申します。このたびは父が亡くなり、大勢の方々から励ましのお言葉をいただき、たいへん感謝しております。
父は7月22日に、ちょっと風邪っぽいということで、肺炎の疑いもあって主治医のすすめで入院しました。96年、体を使ってきて、老衰という形で昨日の朝、天寿を全うしたと言いますか、神様からいただいた寿命をきっちり使い果たしたと思います。
本来ならきちんとお世話になった方とのお別れの場をつくるべきだと思いますが、父から「こぢんまりやれ」という話もありました。
父は、俳優としての森繁久弥というものが九十数パーセントだったと思いますので、最後のところだけちょっと私たちできっちり父を送ってあげたいと思い、昨日、親戚(しんせき)だけが集まって、通夜というよりも、お別れの会をしました。ついさきほど代々幡の斎場で荼毘(だび)にふしました。最後に、紋付きはかまをはかせて正装で旅立たせました。息子が言うのもなんですが、非常にいい顔でした。
【質疑応答】
――父の生きざまを息子としてどう思うか。
一言で言うのは難しいが、私たち家族にはつねに父親の森繁久弥という意識しかなかった。俳優という意識はせず、つねに私たちには父でありおじいちゃんだった。本当にいいおやじだったと思います。一観客としては、素晴らしい俳優でした。
――棺の中に入れた物は。
母の写真を一緒に。あとは父の母の写真と、ひ孫たちの折り紙を。あまりにも羽織はかまが立派なものでしたから、あまりいろいろなものは入れなかった。
――最後に交わした言葉、今思い出される言葉は。
子どもの頃にはずいぶん厳しくいろんなことを言われた。優しさというか、裏表のない非常にさっぱりした潔い人だった。
――「100までは生きてみせる」と話していたが。
90歳のとき、近しい方々が集まって卒寿を祝った。そのお礼の文を書いた際に「今日は非常にありがたいけれども、100歳になったらゆっくりとお礼を申し上げます」と自分で書いていたので、それぐらいの自信はあったと思う。
――最後の言葉は。
ちょっと記憶がないですね。普通の親子の会話だったので。
――最後のお別れで、棺にどんな言葉を。
「楽しかった」って言いました。本当に楽しかったですから。
――今、振り返りながら改めて思い出すことは。
さっき申し上げたように潔い父だった。昔の映画などが再放送されるとき、「おやじさん、見ましょうよ」と言うと、「そんなものはいいんだ」とすっぱり言い切ってしまう。「終わった話だ」と。非常に思いやりがあって、いろんな上下の差もなく、どんな方にでも頭を下げるところが勉強になった。ささやかなことにも必ず「ありがとう」という言葉をかけるところなどが、父の横にいて勉強になりましたね。
――父の作品で一番好きなものは。
「ヴァイオリン弾き」がいちばんです。3階の一番上で切符を買って見るのが私の主義で、何十回も見た。歌と朗読も好きでした。
――亡くなる直前はどう過ごしていたのか。
毎日顔を見に行かないと、私も寂しいですから。看護婦さんにわがままを言っていたり。(マスコミの)みなさん方の目に触れるので、あまり自由に外に行けずにかわいそうかなとは思っていた。
――衰えを訴えた場面はあったのか。
年をとっているから、当然そういうことはある。でも誰でも年をとったらそうなると思います。
――心残りはなかったのだろうか。
なかったんじゃないですかね。もう孫も8人。(主演したのは)「七人の孫」なんですけど、ほんとは8人。ひ孫も8人いて、実は父がなくなる6日前に、下のフロアの産科でもうひとりひ孫が生まれて9人に。
――孫やひ孫への言葉は。
どれがどれだかわかりませんから、全部「チビ」で済ませてます。
――名前は全部森繁さんが命名したのか。
そんなことはありません。みんなそれぞれにつけてます。ただ、食事を一緒にすれば「おいしいか? おいしいか?」って一生懸命うれしそうに。
――静かに眠るような最期だったと聞くが。
管だらけではなく、ほんとに自力で、自分の力の限りで最後までいったということは、僕たちとしてはいちばんうれしかった。父の力で生きられるだけ生きたということで……。そういう意味で、非常にいい、非常に穏やかな最期だった。急変したが、(近親者は)みんなだいたい近い距離だったので集まることもできた。
――危篤状態は何日ぐらい。
私は亡くなる前日の午後に駆けつけた。その晩泊まって、昨日の朝だったので……。