ヅカ★ナビ!
2008年11月28日
星組公演『ブエノスアイレスの風』より=撮影・岩村美佳
「海外で暮らすなら、ブエノスアイレスがいいですよ」
とすすめられたことがある。
南米ブエノスアイレス、古き良きヨーロッパの香りが残る街らしい。そういわれて、「えっ……でも、治安は大丈夫かなあ」などと本気で心配すると「それは自己責任で何とかしてください」と、あっさり。
でも、タカラヅカならば3時間と数千円でお手軽に世界中を旅することができる。情熱と冷徹さが同居する街ブエノスアイレスの酒場で、タンゴを楽しむことだってできる。
宝塚星組「ブエノスアイレスの風」の物語は戦後まもないころ、7年もの間監獄生活を送っていたニコラス(柚希礼音)が特赦で出てくる場面から始まる。
彼はかつて反政府ゲリラのリーダーだった。だが、軍事政権が倒れ、つかの間の平和が戻った今、彼は今一度生きる意味を探さなくてはならなかった。
タンゴ酒場でようやく仕事を得たニコラスは、踊り子のイサベラ(夢咲ねね)に才能を見出され、パートナーに誘われる。
「今は誰からも踏み込まれたくないし、誰の心にも踏み込みたくないんだ」
最初にそう告げられるイサベル。ふたりはただ、ダンスのパートナーとして練習を重ねる。だが、言葉はなくとも溢れ出るお互いの感情は抑えきれない。踊るごとに少しずつ心を通わせるふたり。
やがて酒場のオーナーから、有名ダンスチームのオーディションを受けるようにすすめられる。それはイサベラの夢だった。ニコラスは考えた末、「合格した後のことはわからない。でも、それまでは必ずがんばる」と約束する。
ところで、どうして元ゲリラのリーダーがいきなり120度以上も楽々と足を上げちゃうわけ? ……というツッコミはこの際ナンセンス。なにしろニコラスを演じるのは宝塚屈指のダンサー柚希礼音なのだ。
とにかく踊ってくれなきゃ始まらない。柚希礼音に踊らせないなんて、浅田真央にジャンプ禁止令を出すようなもの。観客は、柚希礼音の……いやニコラスのタンゴを楽しみに観に来ているのだから。
宝塚「歌劇」は、歌って踊ってお芝居をする劇団だから、主要な役どころを担うスターたちは歌も踊りもオールマイティにできなくてはならない。今は観客の目も肥えてきたから、求められるレベルも年々上がってきている。宝塚歌劇が外のミュージカルなどの舞台にも人材を輩出し続けている所以である。
なかでも歌が得意な人、踊りが得意な人というのはある。柚希礼音は何といっても踊り派だ。男役ならではのダイナミックさと、幼いころからバレエで鍛えてきたしなやかさを併せ持つ彼女のダンスには独特の魅力がある。
イサベラ役の夢咲ねねは、スラリと背が高く、長い手足に超小顔のモデル体型だから、ペアで踊る場面では、そのイサベラをめいっぱい美しく見せるべく「男らしく」リードする。いっぽう、ソロの場面では持ち味全開でのびのび踊る。
タンゴのステップ、バンドネオンの音色を折々にはさみながら、ストーリーは淡々と、さりげなく展開していく。
元恋人とのすれ違い。そして、かつて共に命をかけて闘った親友リカルド(和涼華)は未だに昔の理想を捨てきれずにいる。
オーディション当日、ニコラスは現れなかった。リカルドが引き起こそうとした銀行強盗事件に巻き込まれたのだ。
「どこかに、行ってしまったかと思った……」と、イサベル。
「友だちが、死んでしまったのだ」と、ニコラス。
物語はここで終わりだ。ふたりがその後どうなったのかは描かれない。
だが、きっとふたりは再度オーディションを受けるチャンスに恵まれただろう。イサベルは一流への登竜門をくぐることができただろう。そして、ニコラスはイサベルの支えによって、再び生きる目的を見出すことができただろう……。
そんな心楽しい想像にふけりながら、ブエノスアイレスを、いや日本青年館を後にしたのだった。