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お役立ちコラム
はると春、ねじれと文化〈京須偕充さんコラム〉2007年12月03日 国の二つの議会で多数派が異なる状況になって、どうも政府の思い通りに行きにくくなった。「ねじれ国会」としきりに言う。政府や与党がそう言いたくなるのはわかるが、第三者であるメディアもそのことばを重宝にしている。 「ねじれ」はあまり人聞きがよくない。不正常ということだ。衆参両院で多数派が同一なら正常、というのなら、いっそ一院制にしたらよかろうとも言いたくなる。何かといえば「多様化」を持ち出しながら、それが生み出す、ときには辛くて皮肉な結果について、体制側と足並みそろえ、「ねじれ、ねじれ」と合唱するのには鼻白む。政治がいちばん「ねじれ」から遠いのは全体主義さ。 生活だの、文化だのは、じつは「ねじれ」のかたまり。カビから納豆やチーズを作るように、ねじれやくいちがい、ずれ……そんなデコボコを肥やしにして風俗や芸能、芸術文化は醸造されてきたのです。何事も起きなければ悲劇はなく、思いがけないことにならなければ喜劇の幕もあかずじまい。 行政が理屈に合わないことをしては困るとは言うものの、理屈に合わせられて生活や文化が混乱し、それがいまだに尾を引いている――。年の初めにいつもそれを感じます。 明治6年から日本は陰暦を捨てて欧米と同じ太陽暦を採用しました。利点はいろいろあって、もう旧暦に戻せるはずもありませんが、以後百何十年か、いまだに「暦の上では」の枕詞(まくらことば)を付けてニュースはコメントせざるを得ないのです。 寒さのドン底に立春が、暑さのピークに立秋がやってくる。紅葉の盛りに立冬ですが、東京あたりでは多くの木々の葉はまだ緑のまま。 これ、文化の「ねじれ」以外の何ものでもありません。しかも百何十年も、これから先もずっとねじれっ放し。国会の一会期なんか、石川五右衛門流に言えば小せえ小せえですよ。 暦の上では――。どうやらコヨミとはもっぱら「旧暦」を指し、もう現役ではないようです。ことばまで当然のようにねじれてくるんですなあ。 正月はまだ寒さの三合目ぐらいなのに「新春」、「初春」、「迎春」と、「はる」ずくめ。これもコヨミのねじれが生んだ現象です。昔の人は、暮れの挨拶に「来春(らいはる)おめにかかりましょう」、大晦日の借金の言い訳に「はるになったらお払いします」と言いました。これは落語に色濃く残っています。「はる」とは花見の季節であるよりもまず、門松が外れて間もない時期までのことでした。 この間、ある落語家が、年末の借金の返済時期について、「春でいいよ。春がだめなら夏でも、秋でも……」と高座で演じていました。 とても情愛のあることばですが、「はる」が英語のスプリングの意味になっていることは明らかです。リーダークラスの落語家がこの調子ですから、旧暦の「はる」、落語の「はる」も怪しいものです。 そのうちに旧暦が養ってきた何もかもが消えてしまうのでしょうか。暦はねじれたままにしておきたい。それがこの国のせめてもの文化の香りだとは思うのですが、さて、どうなりますことやら。 京須偕充さんのコラム「落語って、こんなにおもしろい」は、文化芸能ページで連載中です。
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