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アラファト議長は世界を揺るがしてきたパレスチナ問題を40年近く一身に担ってきた。ワンマンとの批判はあったが、パレスチナ解放機構(PLO)で現実穏健派として強硬派を抑え、和平の地平を開いてきたことも事実だ。議長の死でパレスチナが抱える内部対立や民衆の不満が噴き出せば、中東の新たな不安定化につながりかねない。
「アラファトが解決であり、同時に障害だ」。中東和平の様々な局面でこう繰り返されてきた。難民問題、聖地エルサレムの帰属、パレスチナ独立とイスラエルの生存権、軍事占領とテロの応酬など様々な難問を抱え、困難な決断を迫られる。議長は主義や理論ではなく、世界を飛び回る行動力と天性の政治的嗅覚(きゅうかく)でいくつもの危機を生き延びてきた。しかし、議長の予測できない行動や判断は時として国際社会を困惑させた。
しかし、どんな和平案も議長が関与して初めて動き始めた。イスラエルが占領地から撤退する代わりにアラブ諸国がその生存権を認めるという国連安保理決議242は、88年の国連総会で議長が受け入れを表明し、イスラエルの生存権の承認とテロ放棄を宣言した。
パレスチナ自治への道を開いた93年のオスロ合意も同様だった。合意に先立つ秘密協議に現自治政府首相のクレイ氏や前首相のアッバス氏ら親米穏健派を参加させたのは議長だ。難民問題やエルサレムの帰属などパレスチナ問題の核心を棚上げしたまま、限定的自治を始めるという合意に、パレスチナ人の間では大きな反発が起きた。しかし、議長は受け入れ、和平への期待が高まった。
カリスマ的な議長に国際社会が期待したのは、イスラエルとの最終合意の決断だった。オスロ合意を拒否したPLOの強硬派やイスラエルの存在を認めないイスラム過激派が幅をきかせるなか、議長がパレスチナの意思を代表する存在として解決の鍵を握り続けた。
00年夏、米国の仲介で開かれたキャンプデービッド首脳会談で、イスラエルのバラク首相がヨルダン川西岸の9割以上から撤退するなどの提案を示して、議長に最終合意を迫った。当時のクリントン米大統領も圧力をかけた。自治政府幹部からも受諾を促す声が上がった。しかし、議長は首を縦にふらなかった。
その後、パレスチナで第2次インティファーダ(対イスラエル民衆蜂起)が始まり、シャロン政権による自治区への大規模な軍事侵攻でオスロ合意は崩壊した。
シャロン首相は議長の封じ込め策をとった。イスラエルの和平派からは「議長は我々がやっと手に入れた和平の財産なのに、なぜつぶそうとするのか」という声が聞かれた。議長を和平交渉から排除して最終和平の機会を逸したのは、パレスチナだけではなく、イスラエルも同様なのだ。
今後、ブッシュ政権などが提案した、05年までのパレスチナ国家樹立を目指す中東和平ロードマップ(行程表)の実現が課題となる。危ういのは議長の後ろ盾を失った穏健派のクレイ、アッバス両氏の足場だ。独立と引き換えに入植地やエルサレムの帰属問題で譲歩すれば強硬派や過激派は強く反発し、パレスチナは分裂する恐れがある。
さらに行程表はパレスチナ難民問題の解決策を示していない。難民は周辺アラブ諸国を中心に300万人以上いる。オスロ合意では最終交渉まで棚上げされ、難民たちは議長の決断を待って10年間、沈黙し続けた。難民問題を置き去りにしたまま独立国家ができても、パレスチナ問題の半分は残ることになる。
パレスチナ問題への対応で長年、アラファト議長だけを頼りとしてきた国際社会は、議長の死で問題の複雑さと危険さに直面することになろう。(カイロ=川上泰徳)
(11/11 13:59)
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