第1回 初のメダリスト

先駆者、世界と競う

義足スプリンター界をリードしてきた先駆者がいる。山本篤、33歳。左足のももから切断したT42クラスの選手で、100、200、400メートルで日本記録を持つ。2008年の北京パラリンピック走り幅跳びでは銀メダルを獲得した、日本勢初の義足陸上選手のメダリストだ。靴を履き替えるように、手際よく義足を付け替える。左足に義足のソケットがぴったりとはまり、空気を抜いて吸着させる。「これで走っても抜けることはない」。義足は体の一部になり、軽やかにトラックを駆け抜けた。「みんな走れますよ。でも、義足が曲がって伸びる、バネのような感覚をものにしないと、トップにはなれない」重要なのは両足とも同じちからで地面を蹴ること。それには義足のコントロールが欠かせない。歩くことすら難しそうだが、「理由は分からない。僕にはそれがすぐできた」。 “日本最速の男”はどうやって生まれたのだろうか。

T42クラスとは
  • 次のいずれかに該当するもの
  • 1. 片側もしくは両側の大腿部で切断しており義足を装着して競技するもの
  • 2. 片側の膝関節と足関節の機能を失ったもの。

パラスポーツ
陸上競技のクラス分け

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1週間で逃亡

静岡出身の山本は、高校2年生の時にバイク事故で左足を失った。義肢装具士をめざして進んだ専門学校で陸上と出会う。2年目の夏。学校で義足のそうほうを研究していた先輩から泊まり込みでトレーニングを受けた。ひざの動かし方やももの振り方……。自分の動きをビデオで撮影し、悪い点を改善する。朝から夕方まで、何日も反復練習が続いた。「もう嫌で嫌で仕方がなかった」。トレーニングは2週間の予定だったが、のちのメダリストも1週間でねを上げた。「ちょっと予定が入ってしまって…」。口実を作って逃げ出した。苦しかった分、記録は飛躍的に伸びていた。トレーニング前は100メートル17秒36だった。それが、9月の障がい者陸上のかんとうせんしゅけんでは14秒06。みごと優勝を果たした。「義足で走るための、体や脳のイメージをすべて変えることができた。今の僕があるのはこのトレーニングのおかげ」と振り返る。

母校・大阪体育大学のトラックに立つ山本篤選手

「1人じゃ限界」

本格的に陸上を学ぶため、山本は体育大学への入学を決意する。「僕は相当、弱い人間。1人で練習を続けるのは限界だった」2003年11月、大阪体育大学の推薦試験を受けた。雨が降るトラックで100メートルのじつぎしけんは行われた。70~80メートル付近で山本は大転倒し、肩を脱臼した。試験官の1人が駆け寄った。「もう懲りたか?こんなこと、体育大学ではよくあるぞ」。びしょぬれの山本は一言、「大丈夫です」。山本自身はこの時のことをよく覚えていない。だが、声をかけた伊藤章名誉教授(67)は今もこの光景が目に浮かぶ。「ものすごい強い意志を感じた。ほかの学生にもいい影響を与えてくれる」

山本選手を指導した伊藤章大阪体育大学名誉教授

恩師との出会い

2004年4月に入学し、念願の陸上競技部に入ると、そこには伊藤がいた。短距離のコーチで、山本の入学を心待ちにしていた。きょうはスタートダッシュ、あすは30~50メートルのたんきょりそう。日によってメニューが異なり、それを1週間単位で繰り返していった。山本は高校までバレーボール部に所属し、毎日、同じ練習内容だった。陸上部独特の練習方法は新鮮で、「好きで陸上をやっている人間から、陸上競技者に変わっていった」。速く走るすべを次々と吸収していった。

山本篤選手と伊藤章名誉教授の動画(音声が含まれています)

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入部当初、走り方は意識せず、仲間についていくだけで精いっぱいだった。それでも順調にタイムは上がっていった。義足で走ることに自信がつき、モチベーションは高かった。しかし、大学2年の1年間は前年の記録を更新できなかった。大学3年生になり、伊藤のゼミに入った。伊藤はスポーツバイオメカニクスの第一人者で、筋肉の動きや最適なフォームを研究していた。タイムが頭打ちになっていた山本が目の当たりにしたのは、走ることを科学することだった。(向井宏樹)

IPC陸上世界選手権でとった金メダルの報告に訪れた山本選手と伊藤名誉教授
=敬称略