第4回 カーボンの驚異

日本の技術力

スポーツ用義足で世界トップのシェアを誇るオズール(本社、アイスランド・レイキャビク)。その根幹を支えているのが日本の技術だ。「義足の原材料であるカーボン繊維には、すべて日本製を使っているんだよ。日本製のカーボンは最高だからね」工場を案内してくれた同社メカニカルリーダーのクリストフ・コント(36)は、そう言って、無造作に積まれた真っ黒なカーボンの束を手に取った。「一つひとつはすごく薄いけど、これを重ね合わせていくんだ。多くのトップレベルの選手が使う『チーター・エクストリーム』なら、約100枚を重ねるんだよ」製品の形状に合わせて、重ねられたカーボンは、空気を抜くために特別な機械でプレスし、さらに「オーブン」で熱して、湾曲した一枚の板のような型となる。

休憩所でくつろぐオズールの社員たち。我々が訪問したのはお昼過ぎ。音楽を聴いたり、ネットサーフィンしたりと、みんなリラックスしていた

「料理みたいでしょ。オーブンには2時間入れてるけど、温度や空気を抜くためのプレスの力加減は、トップシークレットだよ」できあがった一枚の板のようなレイヤーからは、約7枚の製品をくりぬくことができる。カーボンが広がってしまわないように、切断には水の圧力を利用したカッターを使う。その後、機械で丁寧にやすりをかけ、義足は完成する。工場で働くのは25人。全員が特別なトレーニングを積んだ職人だ。

本社2階の工場エリア。カメラを向けると、「何をしているか分かるような写真は撮らないで。パソコンの画面も写らないように」(広報)
オズール社で働く義肢装具士。チーター・エクストリームなどの義足を、患者が快適に使えるよう調整する
社内に飾られていた過去の義足。常に義足界をリードしてきたオズール社。いまでは人工知能を搭載した製品もある

ラインは一つ

徹底した管理の下、工場では現在、25タイプの義足を製作している。その中でトップの性能を誇るのが、多くのトップアスリートが採用する「チーター・エクストリーム」だ。開発が始まったのは2010年。義足の陸上選手として史上初めて五輪に出場したオスカー・ピストリウス(南アフリカ)が使用していた「チーター」をグレードアップさせた。「力を入れたのは義足のフォルムですね。走る時の足の動き、地面からのエネルギーが義足を通じてどう伝わるか、さらに最も効率的な義足の角度など、研究を重ねました」約2年をかけて完成した「チーター・エクストリーム」は、チーターよりも湾曲は深くなり、カーブも長くなった。短距離のスピードが必要な100メートル、200メートル、走り幅跳び用に設計されている。

チーター・エクストリームとはの動画(音声が含まれています)

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「サイズは1種類だけです。使う人の体重によって、九つにカテゴリー分けがされています。陸上選手はトレーニングされているので、自分の体重に合うものよりも上のカテゴリーを使う場合が多いです。普通の人がカテゴリーが上の義足をはけば、反発に負けて走るどころではありませんけどね」気になったことがあった。トップアスリートは道具にこだわる。選手たちの細かな要望に、スポーツメーカーが個別に対応するのは珍しいことではない。だが、オズールの工場のラインは一つだけ。もしかしたら、有名選手専用の特別なラインがあるのかもしれない。そんな疑問をルコントにぶつけてみた。「それはできないんだ。我々はすべてのアスリートのために、製品を作らなければならない。もし、特定の選手だけのために製品を作れば、『テクニカル・ドーピング』になってしまうんだ」意外な答えだった。つまり、例えばサッカー選手のスパイクのように、義足は「ピストリウス・モデル」などと大々的に宣伝することはできない。それでも、オズールの名前を世に広めるために、同社ではトップアスリートを選抜し、「チーム・オズール」としてサポートを行っている。現在のメンバーは16人。日本からも、走り高跳びの鈴木徹選手が選ばれている。

「チーム・オズール」のアスリートたちがサインしたシャツ。日本人では、走り幅跳びの鈴木徹選手が所属している

薄れゆく境界

「チーム・オズール」メンバーの1人、サラ・レイナーツェン(40)は、2005年に義足の女性として初めて、ハワイのアイアンマンレースを完走した「超人」だ。水泳3.8キロ、自転車180キロ、マラソン42.195キロ。長距離用に開発された「フレックスフット」シリーズの義足を相棒に、10年かけてトレーニングし、2度目で挑戦を成功させた。「アイアンレースを目指したのは、パラリンピックの先に行きたいと思ったからでした」7歳で左足をひざうえから切断した彼女は、13歳でひざうえ切断者の世界記録を樹立した。1991年には米国五輪委員会が選ぶ「最優秀女性しょうがいしゃアスリート」を受賞。17歳でバルセロナ・パラリンピックにも出場した。だが、頂点で感じたのは、あるしゅの失望だった。「メダルを獲得できなかった以上に、当時の女性競技には数えるくらいしかカテゴリーがなかった。だから、私は腕を切断した選手と一緒に走ったのです。自分が思い描いていたレースはそこにはありませんでした」

サラ・レイナーツェン選手インタビューの動画(音声が含まれています)

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「自分の限界との戦い」に競技の目標をシフトしたレイナーツェン。しかし、その後、しょうがいしゃスポーツも急速の進展を遂げ、パラリンピックは彼女が望んだような「トップアスリート同士の戦いの場」に成長した。しょうがいしゃスポーツのパフォーマンスの向上には驚きます。昔は障がいがあるのに頑張ってるな、という目で見ていた人が、今はスポーツを見に来てくれます。運動をすることが多くのしょうがいしゃアスリートにとって『仕事』になったのです。パラリンピアンはオリンピアン以上に『チャレンジ』を乗り越えて、あの場所に立っているのです」アスリートの努力と義足の進化。両者が相まって、しょうがいしゃスポーツは足元を着実に固めてきた。今や、競技によっては健常者の記録との境目は、どんどんと薄れつつある。(藤田淳)

サラ・レイナーツェン選手
=敬称略