おとたけひろただパラリンピックの可能性 動画(3分15秒)

シーン1

(質問) 障がい者アスリートが健常者の記録に迫っています

(おとたけ) これまでどうしても障害者アスリートは皆さんの考える物語というものの中で捉えられてきたと思うんですね。つまり障害者というのは健常者よりも下であると。私自身やっぱり身体障害者として生まれ育ってきて、つねにそういう位置付けの中で、そこに抗いたいという反骨心のようなもの、そういった思いがモチベーションになってきた部分もあるんですね。だからこそ、ピストリウス選手のように障害者の中では史上最速のランナーであると、最強のランナーであるというなかで、健常者の中にある意味こう殴り込みを掛けていった、それが準決勝まで進んだ、すごいねと美談になる。

なぜ美談になるのかというと、結局健常者には勝てていないからなんですよね。ところがマルクス・レーム選手というドイツ人のジャンパーが健常者の大会で優勝してしまった。すると、次の大会には進まないでくれと。これは今までの「障害者は健常者よりも下だよね」という物語を壊してしまった。つまり、健常者よりも上になってしまった。だからこそ、多くの健常者がそこに戸惑い、ちょっと困惑してしまった。じゃあ 、今後我々が考えるべきなのは、その物語は本当に正しい物語なのか、今後もその物語でいいのか。こうした議論をしていかなければならないですし、ピストリウス選手、そしてレーム選手の活躍は私たちにそういった問題提起をしてくれているのかなと思います。ピストリウス選手、そしてレーム選手の活躍は私たちにそういった問題提起をしてくれているのかなと思います。

インタビューで語るおとたけ

シーン2

(質問) パラリンピックと五輪、関係はどうあるべきか?

(おとたけ) 私はずっと言い続けてきているのは、パラリンピックはゆくゆくは無くしたい、と思っているんですね。ただ、それは障害のあるアスリートの活躍の場を奪いたいというわけではなくて、オリンピックとパラリンピックを統合してひとつの大会にしたいということなんですね。ひとつの大会にするというと、は同じ舞台で同じ競技として戦うのはさすがに無理があるんじゃないなんていうことを言わるんですけど、そうではなくて、例えば柔道やレスリングというのは体重によって階級が分かれていますよね。私の中ではそのイメージなんです。

例えば、100メートル走。ウサイン・ボルト選手が出場する健常の部に加えて、車いすの部があったり、義足の部があったり、視覚障害の部があったり。そういったカテゴリーで分けていくということが、非常にあり方としては理想的何じゃないのかなと思うんですね。体重、体格、これが明らかに違うならばかえって分けないと不公平になるよね、という同じ考え方で障害によってカテゴリーを分けて、純粋に戦っていくというのは、フェアネスを確保する意味で大切だよね。なぜ、体重で分けることがよくて、障害で分けるということが駄目なのか。それが同じ大会で行われないことは何なのか。そう考えていくと、私はむしろ同じ大会であることの方が、自然になってくるのかなとそんな風に思っています。

インタビューで語るおとたけ
=敬称略